笑いのミラーボール

分類に困るような「笑い」があります。

僕は「血」に弱いのです。

血が流れ出る様子を見たりだとか、病気や事故でどんな目にあったという話を見たり聞いたりすると、僕は笑ってしまうことがあります。

その流血やら病気やら事故、事後の処置の詳しいところだとかの話がすべて自分の身に起きたことだとしたら、一体どんな感じだろう、どんな身体感覚なのだろう…というのを生々しく想像してしまうのです。

「驚き」のあまり笑ってしまうのかもしれません。そうした怪我や事故の体験というのは、おおむね「非日常」のものですから。楽しむための、娯楽としての「お笑い」を観ているときも、予想を超えたアプローチに出逢うと笑いが止まらなくなることがあります。

話を事故や怪我ばなしの方へ戻しますと、ひどいときには(そうした「驚き」によってか)笑いが止まらなくなったあと、僕はそのまま失神してしまいます。一度、献血にチャレンジして、腕に突き刺さった針を通してとくとくと筒の中に流れ込む自分の血液を見つめていたら、可笑しくなってきてそのまま失神したこともあります。

事故や怪我でもなんでもないのですが、大学の授業で「発声時の声帯の映像」を観ていたら、笑えてきてそのまま失神したこともあります。「発声」は日常的なことですが、普段、のどの奥におさまっている「発声器官」のなまめかしく動く様を見るなんてことは、僕にとって完全に「非日常」だったのでしょう。あとでそのときの授業の担当教官に「医者にはなれねぇな」と言われたのを覚えています。おっしゃる通り、なれる気がしません。こうした光景を日常的に目にする職業の方がいるという事実に思いを巡らせただけでも、また可笑しくなってきて失神してしまいそうなくらいです。

「笑う」という反応は、「楽しさ」と結びつくイメージが強いですが、なんとなく美化されて語られるケースが多いがために、少し歪んで形成されたイメージなのかもしれません。

「笑う」というのが不謹慎だとか、不恰好であると見なされる文化、社会だったりが世界の中にはありそうな気がします。具体的な事例を知らないので例示できませんが、例えば「大人の男が声をあげて笑うもんじゃない!」といった価値観を持った、少数の狩猟採集民族なんかが世界のどこかにいそうなものです。あくまで僕の、一個人的な偏見ですけれど。日本においても、葬儀のときだとか、真剣な議論で緊張した場面だとかでは、「笑い」が不適切とみなされることもあります。

仮にここで「笑い」=「驚き」だとしますと、「驚いてはいけない」「動じてはいけない」「平然と、冷静にしていなさい」ということが求められる場面に、「笑い」が禁じられたものとなる瞬間があるのでしょう。

「驚き」「快楽」「喜び」、ここまでには挙げませんでしたが、「悲しみ」や「怒り」などの側面をもった「笑い」もあるように思います。疲れ切ってなぁんにも考えられなくなって、ふと、腹筋が痙攣しだすみたいに笑えきた、なんて経験も僕にはあります。

くすぐられても「笑い」ます。拷問に用いられて、「笑い」の果てに命を落とすなんてこともあるでしょう。

「笑い」の多面性を考え出すと、なかなか尽きませんね。