かくありたい 〜絶対的15年間の相対性〜

15年前くらいに、「かくありたい」という未来の自分があったと思います。

15年経ったいま、その「かくありたい」になれているかというと、なれているところもあればそうでないところもあります。

これから15年後の自分はどうなるのだろう。15年前の自分ほどには、今の僕は、15年後についてあまり考えたり想像したりしていないのかもしれません。

16歳の自分にとっての15年後は、31歳でした。

やりたいことが身を結んで、それで生活できていて、パートナーや子どもがいる姿を想像していたように思います。

その16歳の15年後の今、やりたいことが身を結んでいるかはわかりませんが、パートナーがいて子どもがいる、は該当しています。そして、15年前には持ち合わせていなかった「やりたいことが身を結ぶ」ということの定義が途方もなく広がったように思います。その広がりのおかげで、かつてと同じかそれ以上にやりたいことをやっている、ともいえそうです。

過去には持ち合わせていなかったものを持っていたり、逆に、持っていたものを手放していたりする未来があるかもしれません。

15年後の自分は、46歳。「かくありたい」自分とは、どんなだろう。同じ「15年後」でも、なんだか、16歳が31歳を想像することの手ざわりとは、また、かなり異質に思えることが不思議です。(ぜんぜん「同じ15年」なんかじゃないのかもしれない。)それだけ、これからの15年に知りえることが無数にあるということを示しているようにも思えます。

31歳、自分の無知を知る。

46歳、こりゃもっとおもしろいぞ。

なんとしても生きてやろうと思う。