鍋つかみはスケルトン

知らなかったものを知って、好きになることがあります。


というのも、名前をよく聞くものごとや人物について、僕は「ああ、ハイハイ」と、どこかぞんざいにしてしまいがちです。売れてていいですね、有名でいいですね、みたいな、やっかみがまず最初に顔を現すのです。


でもそのものごとや人について、少しほとぼりが冷めたくらいの頃合いに自分で手を伸ばして知ってみると、「なるほど、これはいい!」となることがあります。




僕はなぜ、ほとぼりが冷めてから手を伸ばす気になるのだろう。熱が高いうちは、なぜ手に取ろうとしないのだろう。


その言葉のとおり、自分には熱過ぎる「温度」というものが、ものごとや人との関わりにもあるのかもしれません。


過熱しているときにそれに触れることは、まっとうな関係(一時的ではない、なるべく恒久的な関係)を築くタイミングとしては、ふさわしくないのでしょう。無理にさわっても、「なんだ、熱いよ!」と手を引っこめるだけで、結局よくわかりません。下手をすれば火傷をしてしまいます。


そうした最中にも触ることのできる人というのは、自らの温度もとても高い状態にある人だ、ともいえそうです。


凡庸な市民の僕は、いつもだいたい平熱なのです。


そういえば、風邪を引いても、めったに熱が出ません。心と体はつくづく、同一のものなのだなぁ