巨大なくしゃみ 〜社会も花粉症〜

自分の行動や言動の中には、どこかで見たり聞いたりして影響を受けたことの結果として現れているものがあるでしょう。その行動や言動は、自己のものか外側のものか、簡単には線引きできません。影響を与えたオリジナルのものが、自分の中に宿ったかのようでもあります。

誰かの豊かさは、搾取される誰かの貧しさの上に成り立っています。強いものは、弱いものの存在に対して強くいられます。誰かを正義にするのも、悪にするのも、両者の存在あってのことです。

対のものも含めた広い範囲を自己として認識するくらいが、丁度よいのかもしれません。仮に何かの間違いを指摘したり、責任を問うたりする際にも、「これも俺の一部かよ、やれやれしょうがないな…」というような、横から目線といいますか、ご近所や身内意識みたいなものがあって良いのではないかと思います。

花粉なんかも、自分の身体がほっといてくれれば、ただ季節的に通り過ぎていくだけなのでしょうけれど、「異形じゃー!滅せー!!」と騒ぎたてるアレルギー体質がほっといてくれません。(僕も紛れもなくその体質)自己の範囲を広くとらえてみれば、社会全体という「一人」もアレルギー体質になりつつあるかのようです。大きな「一人」が、くしゃみしたり鼻水たれたり、涙を流しておるようです。


そのへんに落ちたものとか誰が触ったかわからないようなものも、平気で食べたり触ったり、自分の近くに置いておけるような寛容さが、かつては個々の生活にも社会全体にもあったのではないかと思います。

本質的に有害でないものまで排除しようとしてしまう潔癖さは、ものごとの「有害」さの過大解釈から来ると思います。どんな食べ物にも、それだけを科学的に取り出して大量に摂取したりすれば、有害な物質が含まれていることでしょう。でも、自然な形のまま口にしたり触れているぶんには問題ありません。むしろ微量だからこそ良いはたらきをするものもあるでしょう。

「認識や意識」が身体に及ぼす影響がいかに大きいものか、自分を含めた現代のアレルギー体質をまじまじと見て思います。