簡潔に生きる

何かと迷ったときは、「本当の目的」に立ち返って判断すべきと考えていました。「本当の目的」をつきつめていくと、多くの場合「幸福の追及」だとか「生きる意味さがし」にぶち当たるように思います。しかし、「本当の幸せ」にも「生きる意味」にも、終わりがない、未完のものであると考えると、納得がいくというか、そもそもその「目的」の存在自体を疑ってみるべきなのかもしれません。

幸福や生きる意味を追及して、仮に何か見つかったとしても、「生」はそこで終わりません。また次の「幸福」や「生きる意味」を探すことになるのでしょう。何かがひとつ見つかる人は稀で、その前に亡くなってしまう人の方が多いかもしれません。

ひょっとすると、「死ぬために生きている」といえるのでしょうか。そういう側面もあるかもしれませんが、「死」が生きる目的だなんて、なんだかおかしな話です。死は目的でもないし、ましてや死によって何かが完成されたり、達成されるなんてこともない。

具体的にやりたいことがあって、そのために自分の弱い部分を強くする、悪いところを正すとしても、「その『やりたいこと』ってなんのため?」と聞かれたときに、「◯×△という目的のため」といったところで、その目的自体があってないようなものだとしたら、もはや問うこと自体がおかしなことになってしまいます。


なんだか論理が破綻してきましたが

やめることで自由になることがいかに多いか。弱いところ、悪い部分を直すことばかりが美化されて語られる局面は多いように思えます。どちらかの肩を持つこともない。今できることをやるようにしたいです。