アゴとグルメ

古典というものに、あまり触れずに来たように思います。クラシックピアノやオーケストラ、声楽の経験があるので音楽に関しては別ですが、文学については、どちからといえば遠ざけて来たように思います。表面というか、形式的な部分といいますか、「手ざわり」が現代の自分にあまり馴染みがなかったりして、ついつい溢れかえるほどある「今の言葉で書かれたもの」を手に取る方に流れてきてしまったように思います。

古典に書かれていることは、使われている言葉や文法が今と少し違ったりしますが、その内容はむしろ、どんな時代のどんな地域の人にも読まれうるものなのでしょう。だからこそこれまで残ってきて「古典」となったのだろうと、至って当たり前なことを思います。

ほんとうに「美味いもの」とは、今この瞬間の食欲を満たすだけの、その場限りのものではないのかもしれません。美味しかったものの記憶とは、体験そのものです。あのときあそこで、誰々と食べた何々が最高だったとかいうように、口に入れて下で触り、歯で噛み砕いた食べ物自体が「ほんとうに美味いもの」かといえば、そうじゃない。何年も何十年も経った後でも参照し続けられような、記憶の辞書に残る体験こそが、本当の意味で「美味いもの」なんじゃないかと思うのです。

立派だとか豪勢だとか、贅沢である必要もありません。音楽でいえば、立派なコンサートホールで聴いたオーケストラの演奏会がつまんなくて居眠りしちゃうなんてこともあれば、部屋に引きこもってイヤフォンで聴いたロックンロールに天地がひっくり返るほどの衝撃を受ける、なんてこともありえるわけです。

高校時代、古典を扱った国語や英語の授業がありました。わからなくてつまらなくて、これでもかというほどに居眠りした記憶があります。まったくの食わず嫌いだったのか、食べてみようと口にしたかどうかさえの記憶もあまりないけれど、おそらく口には含んで、噛み砕けないと判断してそれっきり手をつけなかったのかもしれません。

「美味いもの」には殻があって、叩き割ったり溶かしたり、中身を味わうための「ツール」が必要になる場合がしばしあるようです。柔らかいものやドロドロしたものばかり食べていて、アゴの力自体が弱まることもあるでしょう。もっと「美味いもの」を知る探究心が、弱まったアゴを鍛える動機になるでしょうか。ある程度「せざるをえない」動機によって得た体験が、長く糧となりえるのだ、とも思います。

あんまり難しく考えずに、食べやすそうなとこから食べてみる。もしくは、他人の力を借りる、もありですね。