導火線をかわかして

最近、高校生の姪っ子が、校内の学年末試験で追試を受けるという話題が親族の間で交わされていました。会話の中で「おしりに火がつくのが遅い」と言い放ったのは、僕の母でした。僕自身も、高校生の頃(その前後も)、幾度となく母から言われた言葉です。

遊んだり、様子を見たり、準備したり、集中するために集中を阻みかねないものごとをしらみつぶしにしていく。それではじめて、火をつけることができる。火をつけたら最後、休みなく燃え上がり続ける。もし僕が、早い段階で火をつけてしまったら、きっと期日なり大事な瞬間を迎える前に燃え尽きてしまうんじゃないかと、あるいは、しらみつぶしにしきれなかったもろもろのものに邪魔されて、途中でくすぶって消えてしまったりするんじゃないかと、自分ながらに思うのです。

そうした様子は、第三者の目で見れば、逃げて、逃げて、先延ばしにして、最後にちょっとだけ燃え上がって「やったつもり」になっている滑稽な姿かもしれません。それを見た誰かが「ああはなるまい」と思ったり、尊卑を見いだしたりするのは自由だけれど、それを他者に押し付けるのはどうかなぁと思います。押し付けられのは嫌だけれど、客観的に見たときの自分の姿に対する注意は持ち続けた方が良いとは思います。自分で納得してやるのが良いのです。というか、納得なしにはやれない。それが自分だと思います。

いつぞやの僕は、納得して取り組むために、ぐずぐずぐずぐず逃げ回り、あれやこれやと寄り道しながら、ようやく向き合ったところで大事なところが終わってしまう…そう見られてもおかしくない歴史を演じてきたかもしれない。大局的にみると、歴史は繰り返すものです。ただ、歴史を知れば、納得に至るまでの過程に、少しの違いが表れてくるかと思うのです。

納得した結果、おしりに火をつけないということもある。