野生の庭

近づくと、逃げる。

離れると、いつの間にか遊んでいる。


野生のいきものを、胸に棲まわせている。


僕は、自分で作った歌をギターやピアノで弾き語りします。新しい歌ができることが僕にとってのうれしいことなのですが、これを作ろう作ろうとしていると、何をやってもダメなのです。つまらないものしかできない。自分にとって、ですが。


お風呂に入ったときや、入ろうと服を脱いで真っ裸になったとき。自転車を立ち漕ぎしているとき。散歩をしているとき。楽器の前に立ったり座ったり、楽器を構えているとき。五線紙を広げて鉛筆を握っているとき。曲のもととなるアイディアが生まれるときの自分の状況にもいろいろあるのですが、どの状況のときでも、「作ろう」「作りたい」「作らなきゃ」という意識が先立っていると、決して面白いものができないのです。自分の意表をつくようなものができない。自分の期待や想像を、裏切ったり飛び越えたりするものができない。五線紙を広げたり、楽器を構えているときなのに「作ろう」としていないというのは、すこし違和感のある表現かもしれませんが、僕にとってはそうとしかいえない、そう言って然るべきように思います。「弾こうとしない」ほどに弾けるし、「鳴らそうとしない」ほどに楽器はよく鳴ります。同様に、「作ろうとしない」ほうが、よい曲ができるのです。


恩を売ろうとして何かされるくらいなら、お金を払って何かを買うほうがよいでしょう。「作ろうとする意識」なんてものは、お金を払ってでも引き取ってもらうべき代物なのかもしれません。そうやってお金をつかうことは、気持ちのよいことでさえあります。


「自発的」をお膳立てしてやろうという魂胆がちらつくだけで、自然なそれは警戒して逃げ去ってしまう。正直で疑り深い、野生のいきもののようです。


まず、人間がいなくなる。


すると、いつのまにか小鳥が遊んでいたり。