短気の転機

110ヶ月の息子とよく歩きます。家の近くの道路だったり、公園だったりするのですが、必ずといっていいほど、よく声をかけられます。「かわいいわねえ」なんて言う熟年女性が特に多いです。


息子は屈託無く楽しそうに、駆け回り、歩いたり立ち止まったり、時には私に抱き上げられていたりします。通行の邪魔になることもあるかもしれませんが、無防備に歩く私たちの姿に、向こうも警戒心というものがありません。目尻を下げて、「今、何歳ですか」なんて話しかけられることもよくあります。私1人だったら決して生じないであろうコミュニケーションを呼び寄せるのが、息子の「幼さ」なのかもしれません。


「幼さ」「若さ」は、誰もが通ってきている。


公共の場でマナーの悪い若い人たちがいて、それを年配の人が注意する、といった場面に見覚えがあります。こういう時に注意できるのは、年配の人が多いように思えるのは気のせいでしょうか。自分も「若さ」を通ってきているからこそ、若い人たちの「至らなさ」によく気付くことができる、という仮説が立ちます。


同時に、単純に年をとって気が短くなっているのでは?という疑問が生じます。年をとることと気が短くなることは、関係があるのでしょうか。体が若くなくなると、ひとつのことを長く続けるのが困難になったりします。体力の衰えでしょう。とある状況に長く我慢できなくなるのも、ただ身体が耐えられないというだけなのかもしれません。若い人が平気でいられても、体力がないと苦痛なことは案外多いのではないでしょうか。


こういったことを身をもって実感するにはまだ至らない年齢の私(31歳)かもしれませんが、部分的にそういう兆しがないともいえませんし、近い未来だと心得ておこうとも思います。


適度な運動の習慣をつけたい。


気長にやろうとすると、いちいち若さが要るようです。