ちりとりにすくわれる

最近、母方の祖母が亡くなったので、葬儀をやりました。葬場で棺に入った祖母の姿を見るのですが、そこにあるのは「器」であって、中身といいますか、主はもうおりません。不思議な気持ちになりつつも、冷静な自分を自覚します。

ところが式次第もすすみ、お経や講話も終わり、最後に花を棺いっぱいに入れ、蓋をして霊柩車に運び入れるところになると、涙が自然とこぼれ落ちるのです。さっきは目の前の祖母の遺体は「器」だとか思っていたのに。

つまり、涙がこぼれ落ちたことと、目の前の遺体が「器」かどうかといったことは、直接あまり関係がないのでしょう。式の次第が進むことで、「冷静」を装ってある意味での「本当の別れ」を先延ばしにすることがついにできなくなり、正面から向き合わざるを得なくなったとき、自然と涙がこぼれ落ちるのだと気付きます。

火葬場に移動して、遺体を炉に託します。待合室のソファで居眠りをしました。遺体が燃えてお骨になるまでに、小1時間。火葬場の職員は、これでも昔よりは短くなっていて、火力も高くなっているのだといいます。亡くなる人が多く、そうしないと火葬を待つ人であふれてしまうのでしょうか。日本の高齢者の多さと結びつけて考えたりしましたが、本当のところはわかりません。天気がよい日で、ブラインドの隙間から漏れ出る陽光に目を細めながら、ひたすら渇いた眠りをむさぼりました。

祖母の骨がもろかったことと、火力の高さを映してか、燃え残ったのは大きな骨ばかりでした。のどぼとけなんかの小さな部位は、残らず燃え尽きてしまったようでした。職員が最後に、小さな箒とちりとりのようなもので遺灰をかき集める光景は印象的です。祖父母の火葬で何度か目にしています。4人いたうち、今回の祖母が最後の1人でしたから、4回目だったことになります。亡くなった人を最後にすくうのは、神でも仏でもなく、ちりとりなのです。皮肉でもなんでもなくて、そういうものなのですね。

解散して車で帰宅しました。一生懸命気持ちの整理をつけたり、命のことを考えたり、自分の中で一体、どれだけ大変な活動がおこなわれていたのでしょう。身体的に負担のかかるような運動はほとんどしていないのに、疲れ切っていました。泥でも灰でもない。砂のようになって、その晩、眠りました。