コール・アンド・レスポンスの経験値

からだの状態が、こころの状態なのだと仮定します。その逆も当然で、こころの状態が、からだの状態なのだとしておきます。

こころがとても大変であろうときに、せっせとからだを動かすことで、自己矛盾を防げるのかもしれません。本当はこころに余裕がなくて、ゆっくりしていてもいいようなときこそ、急に家事を徹底的にはじめたりするのは、こころが忙しいことのあらわれなのかもしれません。

からだのどこかが痛み出すとかいうことも、こころに痛いところがあるしるしなのかもしれません。こころに痛いところがあるのに、からだがどこも痛まなかったら、自己矛盾してしまうからです。からだはこころを敏感に察知する。こころもからだを鋭意うかがっている。切り離せないものだから、そもそも別の呼び方があることが不思議にさえ思えてきます。

こころもからだも元気でいたいのに、どこかが痛み出してくる…悩ましいことが尽きない…理想や欲求どおりでない現実を受け入れるために生み出された言葉・概念なのかもしれない、とさえ思えてきます。

忙しくからだをうごかせば、こころの忙しさはほんとになります。

元気にからだをうごかせば、こころの元気もほんとになります。

忙しさと元気さは、見た目は非常に似ているかもしれません。「こころ」とは、「とらえ方」なのでしょうか。同じ事象を指して、ある人は悪く言い、また別の誰かは、良くも言う。ひとつのことをどうとらえるかということは、からだがどうやって過ごしてきたかという経験に基づく判断なのではないでしょうか。ひとりひとりの経験は一様ではないからこそ、同じものごとを指して色んなことを言う人がいる。

せっせとからだを動かした結果、ものごとがうまくまわりだしたという経験のあるひとは、その状態を「元気」だと評価するだろうし、逆にせっせとからだを動かしたがために、いろんなことがパンクしだし、破綻していってしまうような経験を持つ人は、そのことを「忙しい」と評価するのではないでしょうか。

からだは元気だけれど、頭が痛いとかいうことがあるかもしれません。頭も、からだの一部です。頭とはすなわち「脳」でしょうか?「脳」も紛れもなくからだの一部です。「からだ」と「こころ」が別物でなく、本来同一のものなのだとしたら、痛みは「からだ」の問題と片付けるわけにはいきません。「からだ」でも「こころ」でもなく、「わたし」が痛がっているのですから。

「痛い」を経由して、うまくいった経験を持つ人もたくさんいるでしょう。「痛み」に直面し、どうふるまうかにその人が表れるともいえそうです。「痛い」だけじゃなく、「気持ちいい」とかいろいろな感覚についてもそうでしょう。

コール・アンド・レスポンスの経験値。

それこそが、「わたし」なのかもしれません。