主(あるじ)のいない子供服

それまであったものが、なくなる。いたものが、いなくなる。そんなことが、最近の自分の生活にあっただろうかと、記憶を探ってみる。自分の生活空間の中で考えてみると、意外と少ない。

最近、僕は祖母を亡くした。先月の話だ。それで4人いた祖父母の全てが旅立ったことになる。4人の祖父母たちと僕は、一度も同居したことがない。いつも別々に住んで、暮らしてきた。だから、彼らの旅立ちによって、自分の生活空間から何かが消え失せるようなことはなかった。ここではそれ以上も以下も語るつもりはない。

一番身近な例として思い浮かぶのは、妻の帰省である。幼い息子を連れて、彼女はたまに、長野県の実家に帰ることがある。もう何度か経験しているので慣れたけど、息子が生まれてから初めて、僕を残して彼女たちが帰省していったことがあった。そのとき、僕は一人で住むにはやや部屋数の多い、けれど決して広いともいえないごく平凡なマンションで、1週間ほど独りで過ごすことになった。

幼い子どもを含んだ家族三人が過ごすには、ちょうど良い広さの居住空間。毎日、そこに帰った。大人より早く寝てしまう子どもはいない。僕よりも微妙に、早く寝たり遅く寝たりする妻もいない。僕は自分が眠りに着くまで、音だの光だのを、近所迷惑にならない程度の常識的な範囲で漏らし流し、好きな時間に食事をとり、独りを楽しんだ。

そんな生活を2、3日重ねた頃。ふと、ハンガーにぶら下がったままの息子の衣服が目についた。オムツがとれていない乳幼児が着る、股の下で留めるボタンの付いている下着だのなんだのである。それらが、8つか10くらい連なった小さなハンガーに、いくつもぶら下がっている。袖を通す主(あるじ)が家の中にいないのに、黙してただそこにある小さな衣服たち。僕はそれらをひとつひとつ外してたたんでいると、急に喪失感のようなものがこみ上げてきて、胸が締め付けられるような気持ちになった。なぜだかどうしようもなく悲しくなって、手を動かしながら、一人で涙をこぼしていた。なんで僕は、誰もいない部屋で、着る者のいない服をたたんでいるのだろう。

2、3日してからそれらが目に着いた理由は、そろそろ溜まった自分の衣服やタオルを洗濯しようと思ったからだと思う。妻が帰省する前に洗濯してぶら下げていった衣服が、すべてそのままハンガーに陣取ったままになっていた。

何も失ったわけではない。しばらくすれば、妻も子どもも戻ってくる。だけども僕は、自分の生活空間にあった近しい存在が、急にいなくなるという状況を味わっていた。ずっとその状況が続くわけではない。それは一時的なものであり、それまでの状況は復元される。事実として、もちろん妻と息子は帰ってきた。

あの世との隔たりも、この世でたかだか200kmの隔たりも、そう違うものでもないのかもしれない。

それくらい、僕らは「今」を生きているし、「今」くらいしか、生きられないのだ。