「おすすめ」の世代交代

小説をすすんで選んで読んでいた時期もあったのですが、だんだんとフィクションじゃないものを読むようになりました。小説に胸焼けしちゃったみたいに、むしろ避けているような時期もありました。


最近は色んな本を取っ替え引っ替えちびちび読む中に、小説も12冊まぜています。漫画もよく読みます。誰からも評判を聞いたことがなく、初めて見かけるものを、タイトルや表紙を見て直感的に選んで買って来て読んだりします。先入観なしで読めるし、自分の感性で素直に作品に触れらるので、充実した読書体験になるように思います。


本当は、誰かが批評していたとか、評判を聞いたとかいう前情報があるからといって、「偏見なしに読むこと」が妨げられるとは限りません。むしろ、誰から教えてもらったわけでもなく自分で見つけたものは、紹介や触れ聞きがあるものよりも高く評価する傾向があるかもしれません。自分で決めてお金を払ったものの価値が低いだなんて許せない、という心理が働くのかもなんて想像します。


価値は本来、みつけるものなのでしょう。自分で決めてお金を払ったなら、払ったお金に見合うだけの価値を自分で見つけようとします。購入を決めるための判断を他人に委ねていたら、「なんだ、アイツの言ってた本、たいしたことなかったな」とか、価値を見つけられなかったことを他人のせいにできてしまいます。同一のものから、他人が見出したのと同じような価値を自分も見出すなんてことは、普通はそうそうありえないでしょう。


書店で本を手に取って「自分で見つけた」なんて思ったりするわけなんですが、さかのぼるとそれは、本屋さんの、出版社の、編集者の、そして著者の「おすすめ」といえなくもないわけです。


ですから、誰かからの評判を聞いて手に取ったりするのは「おすすめ」の「おすすめ」にあたります。そうした2世代、3世代の評判を頼りにする状態が恒常的になってしまうと、だんだんと「価値を見出す力」がなまってしまわないだろうかなんて勝手に危惧しています。


誰の「おすすめ」にもよらない価値を自分で拾う究極の行為は、「自分でつくる」ことでしょうか。もう、本は「買う」のではなく「書く」時代なのかもしれません。いや、それは「出版」という文化が芽生える頃から(ひょっとしたらもっと前から)、とっくに始まっていることかもしれませんけど


自分でつくっているような気になっているけれど、実は「つくらされている」?