「青沼姓」のルーツについて

最近、自分の先祖について知る機会がありました。もうとっくに亡くなってしまっていて、この世にいない人たちです。


僕の苗字は、「青沼」といいます。日本人の苗字としては珍しいといいますか、数が少ない方に入るでしょう。僕は最近まで、親族以外の「青沼さん」と、直接知り合う機会は一度もなく過ごしてきました。ところが先日、ついに出会ったのです、「青沼さん」と!


その「青沼さん」は、大学のドクターコースで、ある分野の研究をしている人でした。僕は現在、家から自転車で15分ほどの場所にある教育施設で働いているのですが、そこの事業をおこなう協力者というか、主たる仲間として現れたのが、その「青沼さん」だったのです。


僕たちは、知り合ったその場で名刺を交換しました。話を聞いていくと、どうやらその「青沼さん」のルーツは、長野県の北のほうにあるとのことでした。僕も、自分のルーツをわかる範囲で説明しました。




僕の持つ「青沼姓」は、父方の両親のものです。ところが、父方の祖父も祖母も、もともと「青沼姓」だったわけではありません。2人とも、養子として「青沼家」に入る形で結婚しているのです。


父方の祖父のルーツは、新潟県の南方にあります。彼はもともと「富永」という苗字を持っていました。そこから、東京に、はたらきにやってきたのです。いわゆる「丁稚奉公」というものだそうで、東京の根津あたりの自転車屋さんではたらき、養ってもらっていたようです。


一方、祖母のルーツは、群馬県にあります。館林で「青木」という苗字を持っていました。彼女は、東京のある「青沼家」の養女になることで、「青沼姓」となったのです。


祖母には、「青木卯吉」という叔父がいました。卯吉は、東京の板橋にいた「青沼セツ」と結婚して、「青沼姓」になりました。どんな事情だったのかはわかりませんが、2人の間には、子がなかったそうです。そこで、養女を迎えることにしました。それが、卯吉の姪である「青木ふじ」でした。僕の祖母が「青沼姓」を獲得することとなった因縁が、ここにあります。


卯吉は、自転車屋を営んでいました。そこに、いい働き手を迎え入れたいという動機があったのかもしれません。卯吉たちのもとに、根津によくはたらく子がいる、という評判が届きました。それが「富永光信」、僕の祖父でした。卯吉たちは、光信を養子として迎え入れることにしました。同時にそれは、光信とふじの結婚でもありました。


さて、卯吉の妻であるセツがもともと持っていた青沼姓のルーツは、東京・板橋ということになります。セツの祖父は金物の目立て職人だったそうで、彼の姓が「青沼」でした。少なくともそのときには、我が家の「青沼姓」は板橋にあったことがわかります。記録が紛失していて、さかのぼれるのはそこまででした。(セツの祖父は「ごんじろう」、父は「こうえもん」だそうです)



最近僕は、こういった自分の家系にまつわる詳しい話を、母から聞きました。父方の祖父母が、養子として「青沼姓」を獲得した事実は知っていましたが、それを迎え入れた家の「青沼姓」のルーツを知らなかったのです。僕は、職場で別の「青沼さん」に出会ったことで、自分の「青沼姓」のルーツに関する無知さを自覚しました。今度また職場で先の「青沼さん」と話せる機会があったら、新たにわかったことを、少し話してみたいと思います。


もうとっくに亡くなってしまって、この世にいない先祖たちがいます。彼らの存在を意識する機会が得られたことは、幸運なことでした。自分もいつしか、亡くなったあと、子孫たちにその存在を意識してもらえるようなことがあったら、幸せだろうなぁと思います。そういう世界であってほしいし、そうあるように、今を生きていくのです。