「凪」と「渦」

「考える」って、強烈な体験だと思うのです。ひとりで体験したことって、誰かに話したくなるものです。もちろん相手がいたってかまいませんが、それをまだ共有していない相手がいると、やはりこれこれこういうことがあったんだと、話したくなります。

「ひとりでの体験」が豊かになるほど、誰かに話したくなる、つまり、顔を突き合わせたときの会話が活発になる、といえませんか?そして、「ひとりで考える」という体験をおのおのがしているほどに、「ただの会話」は「意見の交換」になり、「議論」になり、おのおのに新しい体験をもたらすのでしょう。

お互いの視野でものを語れば、自分の持つ視野の死角がわかります。「ひとりの時」に、じゅうぶんに「思い込み」を深めることが大事なのではないでしょうか。そして、誰かに会った時に、その「思い込み」をぶち壊し合うのです。お互いに「思い込み」を持ち寄らないことには、ぶち壊すものがありません。天気や体調の話をして終わってしまいます。それも悪くないですし、本人たち次第でそこから発展する場合もあるでしょうけれど。

ずっと監視し、監視されている状態が、集団生活では恒常化します。そうした環境に身を置いている者ほど、「ひとり」の状態で、イン/アウトプットに没頭する、そんな機会を積極的につくる必要があるのかもしれません。また、インプットもアウトプットもやめにして「無心」になることも、「ひとり」という状況がもたらす「至福」なのだと思います。

頭をはたらかせるのをやめてみる。思考の「凪」を感じる。風が吹く。気持ちが良い。
走り回っていたときには感じなかった、やさしい風の存在を知る。さざ波が立ち、凪はやぶられ、そこから次第にうごめきだす、「渦」。
思考がまた、走りだす。

そんな「凪」と「渦」を行ったり来たりしている。大小もさまざまだ。みんなリズムを、持っている。その波長に、いつもいっつも、誰かの干渉を受けたり、与えたりし続けているのは、さもつらいことだろう。

誰もいない海を泳ぎたい。
いつもじゃなくて良いけれど。