認めあいの輪

結婚式というのは、「じぶん文化祭」みたいなものだと思う。厳密には、文化祭みたいなのは披露宴の方だ。挙式の方は、誰の、どんな形式のものに参列したときでも、いつも厳かで、潔白で、神々しくて、まるで人生のすべてがそこにあるような、そんな気持ちにさせられる。

誰も文句を言わないし、あらゆる人が新郎新婦を見守っている。挙式とは、ふだんはさらさないような個人的なことを、大ざらしにするようなおこないでもある。もちろん、個人的なことというのは、「家」というまとまりが持つ意味が、昔とは変わってきているからそう言い表したくなるのかもしれない。「カップル」という、二人の個人的な関係が公のものになる、という意味が含まれる。もちろん、社会的な意味とか、それこそ昔からの「家」というまとまりの側面に立ったときに作用する意味合いが、今でもなくなったわけじゃない。むしろ、色濃くあり続けているとも思う。そんなような、「結婚」に付随して生じる、あらゆる「あることないこと」のすべてを、その場で見守っているような気になるのである。だから僕は挙式に参列するといつも、「人生のすべてがそこにある」ような気持ちにさせられるのかもしれない。

さて、「披露宴」の方は、いよいよ新郎新婦の「じぶん文化祭」である。二人の生い立ち、その物語のまじわりを、さまざまな演出方法によって一同で追体験する。新郎新婦という二人の人間の、それまでの人生を記念した式典のようでもある。それぞれの人生に大きな影響を与えた人が語るとか、一定の時期を一緒に過ごした人が踊るとか、新郎新婦自身もそうした輪の中に入って何か表現したりすることもある。そのやり方というか、アプローチにそのお人柄が表れて、いかにも「じぶん文化祭」なのである。それぞれがありのままをさらし、見守り、見守られる。それ以上のことが何もないほどに、良いのである。

「肩書き」が結婚するわけではない。その人の「職業」が結婚するわけでもない。「家どうしの結びつき」という側面はあるけれど、「家族」であることに、「肩書き」や「職業」は直接関係ないはずである。「肩書き」や「職業」、「立場」みたいなものと、僕らは友人関係を築いたりするわけじゃない。その人そのものとの「認め合いの輪」がそこにある、というだけである。そんな「輪」にじぶんも加わって帰ってきた夜は、たいていいつも、お腹がいっぱいで、着なれない服がきゅうくつで、一刻も早く普段着に戻るべく、シャワーを浴びて眠りに就くばかりである。