天下無双の大馬鹿物語

記憶って、出したりしまったりしているうちに、書き換えられることがあるそうです。ですので、ひんぱんに思い出す記憶ほど、それだけ書き換えられた思い出なのかもしれません。もし、年をとるほどに「幼い頃の記憶が鮮明になる」というようなことがあるとすれば、それは記憶の出し入れを繰り返し、新しいものに書き換えられるがために鮮度を保っているのかもなんて、ロマンのかけらもない思考が頭をよぎります。


逆に、長いことしまい込んでいて、滅多に出し入れをしなかった記憶を引っ張り出すようなことがあると、私たちは「なつかしさ」を感じるのかもしれません。なので、実際にはより昔に起こった事実をもとにした思い出なのに、それよりも最近起こった事実をもとにした記憶のほうが懐かしく感じられるということが、「記憶の出し入れの頻度」を原因にして、起こりうるんじゃないかと思っています。


引っ張り出すことで新しいものに書き換えられ、新たな鮮度を得た「思い出」は、そのたびに「昨日のこと」のように感じられるでしょう。記憶が書き換えられるなんていうと、どんどんその思い出が事実と違う方に変わっていってしまうかのようにも感じられますが、引っ張り出すたびにねじ曲がった改ざんを加えられなければ、必ずしもそうではないでしょう。写真だとか映像だとかの「人間の外側につくられた記録」が、正しい書き換え、すなわち事実に基づいた「記憶の更新」を助けるかもしれません。この観点でいうと、人間どうしの思い出の語り合いはダメです。みんながちょっとずつ「自分の内側の記録」のみに基づいてねじ曲がっていった思い出を語り合うほどに、「あることないこと」の「ないこと成分」がふんだんに含まれた新鮮な思い出を、それぞれがまた持ち帰ることになるからです。でも、それもなんだかとっても、楽しそうですけれどね。


「あのとき馬鹿だった」誰かさんは、思い出す機会を経るほどにもっともっと「馬鹿」が誇張されて、唯一無二、天下無双の「大馬鹿物語」に成長したフィクションを持ち歩くことになる。


いまを生きている私たち一人ひとりが、最高のエンターテイメントなのです。