肌ざわり、触り心地。

本屋を訪れる。棚に挿してある本と、平積みされている本がある。平積みされている本は、どこの本屋に行っても平積みされていることが多い。もちろん、棚に挿してある本だって、その限りではない。

棚に挿してある本は、背表紙しか見えない。これらを手に取るときは、その限られた情報量に自分が引き寄せられたときだ。そうして手に取ったものに何かを感じ、購入して読んで面白かったときは、何かちょっとした「お宝」を見つけたような気分になる。大げさにも思えるけれど、これって実は大げさじゃない。大事なことだったりする。根拠はないけれど、そう思う。

平積みされている本たちは、売る側が「いま売りたい本」だろうか。そんな意図を感じる。一方、棚に挿されている本は、売れるかわからないが一応全国に出回っている本だったりいろいろだと思うけれど、なかには「ずっと少しずつ売れ続けている本」もあったりする。その期間が長くなれば長くなるほど、その本は「新しい」とか「古い」とかいう価値基準に左右されない存在である可能性が高くなる。棚に挿されている本を漁る楽しみには、そうした本に出会えるかもしれないという期待も含まれていると思う。

どんなに大昔の作品でも、驚きも新鮮さも、笑いも涙も、怒りも悲しみも、僕たちが生き永らえる上で持ち歩くすべてのもろもろのあれこれを含んでいる可能性がある。そういったものを残し、伝え続けていくにはどうしたら良いかを考えるのは、何も出版や情報に関連の強い分野にいる人たちのみに課せられるものではない。だからといって、今すぐ申し述べられるような結論を僕が持ち合わせているわけじゃない。ただ、「新しい」とか「古い」とかいった特定の価値基準のみによって物事を選別することは、きっと偏見につながる。何事も自分でさわって、味わってみることだと思う。

「それは食べられないよ」と人がいう。自分にとっても「食べられないもの」かどうかは、わからない。ある人にとって毒になるものが、ある人にとっては薬になるなんてことは、もう耳にたこができるくらい聞いてきた。でも、それが初耳の人だっているだろう。

「感覚」は、感じるためにある。いや、「感じ」「覚える」ものを、僕たちが「感覚」と呼んでいるだけのこと。自分の感覚の正誤を、人に仰ぐ必要なんてないのだ。