旅先のパンツ

ほとんどなんにも準備しないで旅行に行って、現地で下着を買ったりすることがある。行った先が、いつでも下着を買えるような場所であることをわかっていてそうしたのかもしれない。けれど、とにかく今このまま出かけたい、そういう気持ちを重んじたからその時そうしたのだと思う。

「宿題」をギリギリまでやらなかったりする。なんなら、提出期限を過ぎてもやらなかったりする。でも、提出期限を過ぎたあとでやることもある。実は最初に提示された提出期限は、目安でしかなかったのかもしれない。「期日」そのものに重要な意味が含まれているわけではなく、「提出期限を守る」ということを学ばせるために課せられた宿題だったのかもしれない。「学ばせるため」なんていいつつ、実際はたいした意味もない「ゲーム」みたいなものだったのかもしれない。スポーツにおけるルールというか、「自分」と「相手」がいて、そこに「制約(ルール)」を出合わせることで、何か目新しいことやエキサイティングなことが起きたりするかもしれない。「宿題」をそんなふうにとらえると、結構おもしろいもののようにも思えてくる。

「老いじたく」という言葉を聞いたことがある。「老い」に備える行為そのものや、その「支度」をすることの重要性をうったえたり、その価値観を説くことばであると思われる。「支度」は、それが始まる前にするものだ。旅に行く前にするのが「旅支度」だし、「老いじたく」はきっと、老いる前にする準備のことだと思う。旅先で下着を買ったり、宿題を提出期限を過ぎてやったりあるいは踏み倒したりする僕は、老いてから何も準備してこなかったことに気がつくのかもしれない。ちょっと思うのは、「旅に出る前に下着を準備して行っても、旅先で買っても、パンツをはくことができた」または「宿題の提出期限を守って出しても、過ぎて出しても(あるいは出さなくても)、卒業できた」というように、老い始めてから「足りなかった準備」に気付いて間に合わせたのでも、そう問題ないのではないか、ということである。というか、「下着を持って行かないことによってどういう結果になるのか」とか、「宿題を期日に出さないことによってどういう結果になるのか」といったことを、自分はその時その時の状況から、けっこう的確に予感している方なのかもしれない。そして、「大丈夫、たいしたことはない」と判断したときだけ、下着も持たずに出かけていったり、宿題もやらずに別のことをしていたりするのであろう。

案外、「老い始めた」と感じても、実際は「まだまだ若い」ということがありえるんじゃないかと思った。何かを始める前(何かが始まる前)におこなうものが「支度」なのだとすれば、「支度」は僕の場合、けっこうフォローが効いてしまう。事後でも全然、問題ないのである。「支度」しないことを楽しんでいるかのような人生ですらある。あるいは、始まってもいないものを先取りし、意識の外側でいつも何かに取り組んでいるのかもしれない。「どうにかなる」ものである。