ゾウとネズミの「過去」「いま」「未来」

「いま」とか「過去」とか「未来」とかがあります。そのいづれかに執着してもいけないのかもしれません。全部をくっつけて見渡し、統合する「大局観」みたいなものを身に付けたいものです。

「べらぼー」な作品を生み出してしまう芸術家なんかがいたりします。ご本人が亡くなっても、残した作品によって他者に影響を与え続けたりするんですから、「べらぼー」ですよね。
そういう芸術家なんかの存在を知ると、ついつい自分の卑小さを感じてしまいます。比べても仕方がないというか、もう「相手が違う」感じさえします。

さて、「べらぼー」な作品を生み出せない自分を嘆いてもなんにもなりませんから、自分や自分のまわりをまじまじと見つめることから始めるしかありません。そうすると、どこを見てもやっぱりやるべきことはいくらでも転がっていて、「べらぼーな偉人たち」が駆け回った世界と規模は違えど、自分の手の届くところをいかにケアするか、創造性がいくらあっても足りないくらいです。

手の届く一定範囲を切り出して拡大してみれば、そこがまた自分にとって宇宙規模の広がりを持った果てしない空間になります。そのとき、「べらぼーな規模の世界で起きたこと」を知っていることも、それらと自分を対比させて卑小さを感じたことも、決して無駄にはならないのではないでしょうか。これもまた、「いま」「過去」「未来」のいづれかにとらわれすぎてもいけないように、「大きい」も「小さい」も並列して認知することが重要なのではないかと思うのです。

ゾウもネズミも、生まれてから死ぬまでに打つ心臓の鼓動の回数は、そう変わらないと聞きます。「ゾウは良い。なぜなら、大きいからだ」とする「価値」もあります。逆に、「ネズミは良い。だって、小さいもん」という「価値」もあります。僕ら人間が「大きいか小さいか」といったことは、そう問題ではなく、それは個人についても同じことがいえると思います。「僕は、小さい。だから、価値がない」といえるのならば、同時に「僕は、小さい。だから、価値がある」ともいえるわけです。世界中がゾウで埋め尽くされたら、どうでしょう。ゾウの「大きい」という価値はなくなると思います。世界中がネズミで埋め尽くされたら、どうでしょう。ネズミの「小さい」という価値も、やはりなくなるでしょう。「価値」というのは、状況次第でひっくり返るものなのですね。

だから、僕らはいつも、まんべんなく現実を見ている必要があると思うのです。「現実」は「過去」にも「いま」にも「未来」にもまたがっています。「大きい」ところにも「小さい」ところにも、等しく存在します。「大局観」があれば、「小局観」もあるでしょう。「現実」があるから「夢」があるのです。

「芸術」それは、「現実」と「夢」にまたがる、不思議な魔法。