食卓の上の皿

魚をわりと綺麗に食べる方です。食べ終わったあとの皿は、すっきりしていることが多いです。皮なんかも好んで食べる方です。

五つ歳上の兄は、我が家で「食べ終わったあとの皿が汚い」ことで有名でした。僕の食べたあとの皿と並ぶと、その差が際立って見えたものです。彼はソースや醤油やドレッシングを大量に使い、食べ終わったあとの皿をウユニ塩湖のごとく液体で輝かせていました。僕はといえば、何もつけずに食卓に出たものをそのまま食べることが多かったので、食べたあとの皿が棚から出してきたばかりの状態とほとんど変わらない、なんてこともありました。奇しくも、極端な二人が並ぶものです。どうしてこういうことになるのでしょう。意識したつもりはなかったのですが、気づいたときには、もうそのような差異が現れていたのです。

料理に用いられたごま粒なんかを、ひと粒残らず拾い尽くして食べてしまったりします。外食だったり、他人と居合わせているときはそこまで徹底しませんが、家ではいつもそうやって食卓の皿をきれいにしてしまいます。ごま粒が好物だから、というのもあるでしょう。皿洗いは汚れが少ないと、楽ちんになります。

他の人が食べ終わったあとのお皿が、汚くて気になることがあります。もちろん、それをどうこうすることもないし、指摘することもないのですが。反作用的に、自分はきれいに食べようと思うのかもしれません。ただ自分が気持ち良かったり、おいしくってそうしているだけなので、苦痛も苦労もありません。独りで何日か過ごしていると、台所の野菜くずや食べ残しが人数の少なさ以上に少ないなぁなんて思ったりもします。

ただ、おもしろくって、気持ちよくって、そのようになっていく。みんなきっと、誰しもがそうなのでしょう。だから、おもしろいもの、気持ちの良いものをよく見つけ、おもしろくないもの、快くないものにも目をつぶらないこと。これが大事なのかもしれません。

また、あるときに快適だったことやおもしろかったことが、ずーっと時間が経ってもそのままであるとは限りません。むしろ、そのようなことは少ないといえるでしょう。「習慣化」すると、もうとっくにおもしろくも快適でもなくなっていることに気づけなくなっていたりします。どんなに繰り返しても、いつも新鮮なおもしろみや快適さが得られるものこそが、「よい習慣」といえるのかもしれません。

たぶん、僕にとって、食べ終わった後の皿がきれいなことも、きっとそうであるように。