未認知のもの

毎日のように通る道でも、足を止めると、必ずといっていいほど、何かが目につく。たいてい、民家のプランターに植えられた植物だとか、道に自生した植物だとかである。近づいてじっと見てみると、ああ、こんな形をしていたんだとか、細部がどんなものかを知ることができる。ただ通り過ぎるだけでは、決して気づくことのできない細部である。

毎日のようにすれ違う人だとか、いつも近くで過ごしているような人であっても、同じ場所に足を止めるような機会でもなければ、そうそう言葉を交わすこともなかったりする。だけど、何かのきっかけがあって同じ場所に一定時間とどまるようなことがあると、話をしたりすることもある。「場」を共有する未来を予測するのだと思う。長いか短いかはそのときによるけれど、予測された「共有範囲」にふさわしいと思える程度の関係づくりを始めるのだろう。共有範囲とは、つまり時間や空間のことだ。例えば30秒ほどこの人とこの場にとどまるだろうと予測したとき、ある人は天気の話を始めたりする。そして、つつがなくその場は終わる。こうした予測される共有範囲は、そのときの状況によって変わる。これはあくまで予測であって、必ずしもその通りにはならない。

「場」や「機会」をつくろうなんてことは、僕はなかなか自分では言い出せないたちである。だから、たまたま誰かと足をとめて同じ場にとどまるような機会というのは、ほとんどの場合偶然か、他の誰かに仕向けられたものであったりする。そうした機会に、僕はその場を共有する相手の細部をまじまじと見つめることになる。そして、その人を認知する。知らないうちに、何度もすれ違っていた人かもしれない。

毎日通る道。そこに生えた植物。「未認知のもの」は、身の周りにも多い。自分で足を止めることで、それらに気づくことができる。人間が相手だと、その足が止まる時と場所が揃う、という条件が成立しないことには、なかなかそうもいかない。二本の足を多くの人が持っていて、あちらこちらどこかへ行ってしまう。

植物だって、いつもそこにいるとは限らない。僕らが見ることができるのは、いつだって「今」だけだ。