豊かな「点」

みんなの指摘する「嫌いだ」「好きじゃない」「ダメだ」を反映して、嫌われるところ、ダメなところがないものをつくっていったらどうなるだろう。もはやなんにも特徴を保てなくなり、「無」になってしまうかもしれない。批判に耳を傾けることは、特徴を捨てることにつながると、ややおおげさに解釈しておいてもいいように思う。


道の草花が、目につく。遊ぶところなんかなんにもないように語られることの多い、僕の住む町である。いや、実際のところ誰がそんな風に語っただろう。一番そんなふうにふれまわっている犯人は、僕かもしれない。なんにもないから、道の草花ひとつにも目をくれてやる気になったりするのだ、なんてことをこぼしそうになりかけて、言いとどまる。道の草花には、他にどんな魅力的に思われがちなものが近くにあったとしても、価値がある。というか、価値を見出すのは自分である。こんなところには何もないと批判して遠方に出て行って休暇を過ごし、家賃が手頃なことを理由に眠るためだけに帰ってくるのも自分だし、家の窓から見える距離にあるところに自生する草花を訪ねて回り、こんなところに住めるなんて幸せだと思うのもまた自分である。どっちの「自分」も手に届くところにあるのは、言うまでもない。


そう、自然物やそのへんにあるものと触れ合って、遊んで過ごすのが好きだった。僕は、現在住んでいる町で生まれて育っている。子供のときに好きだったものは、たぶんずっと、好きでいられる。忘れてしまうことはあるかもしれないけど、いつでもきっかけがあれば思い出せるだろう。生まれた町にずっと住んでいる僕は、そんなきっかけに恵まれている方なのかもしれない。


「今、気持ちが良い」「今、幸せかもしれない」そんな風に思う瞬間があった。僕は、息子(2歳)が通っている保育園の玄関で、幼児たちに囲まれていた。靴下をはくとか、靴をはくとか、まだ自分では完璧にはできないけれど自分でやりたがる息子を見るともなく見ていたら、他のクラスの園児たちが散歩から帰ってきたのだ。狭い玄関は、たちまち小さな人でいっぱいになった。息子はまだ、靴下を引っ掴んでもぞもぞしている。何人もの園児たちが、僕を見上げる。そして、話しかけてくる。わらわらといろんな声に満ちて、よく聴こえない。僕はその場にしゃがみこんで、耳のうしろにあてがった片方の手でパラボラアンテナのような形をつくり、今しがた僕に話しかけた園児の方に向ける。「どこ行ってたの?」「何してたの?」いろんなことを聞いてくるし、答えても繰り返し同じことを訊いてきたりする。僕は「となり町にいた」とか「コーヒー飲んでた」とか、そんなようなことを言って返した。同じことを何度も言った。


この体験のどこがどうという詳細が重要なのではない。幼児たちに囲まれて、「自分と同じだなぁ」と感じる自分自身にふと気付いたことが、僕にとって重要だったといえる。そう、幼い頃から僕は、そのへんにあるものと触れ合って、遊んでいる時間が好きだった。ずっと遊んでいたくて、日が落ちてしまうことがあんなにうらめしく思えたじゃないか。今でももちろんうらめしいけれど、どちらかといえば「あーあ」という無情感の方が強い。日が沈むというだけのことに、かつてほどの悔しさ、惜しさを抱かないようになっていることに気付く。遊んで楽しい、それが終わりになって惜しい。その起伏のような、波の押し引きのような豊かさで、ごく身近な範囲が満たされていた。


より広い範囲を視野に入れて目指すのも良いだろう。ただ、自分は点でしかない。「点」も、近づき、拡大してみると「面」になる。ということは、前言を早くも撤回することになるが、どんなに小さく思えたとしても、決して「点」などではないということだ。小さく思えるものでもその本質は「面」であり、さらには「立体」、「4次元体」であるといえる。


さあ、それでいてなお、「ここには何もない」といえるだろうか?豊かすぎて享受しきれないものに、誰もが囲まれているはずだ。