9回裏の「勝負師」

長いこと家にある、ラジオペンチがある。握る部分が、黄色い樹脂かプラスチックのような素材で覆われた、わりとしっかりめの物だ。そしてもうひとつ、ニッパーがある。そちらは紺色の素材で握る部分が覆われているものだ。どちらも、100円ショップで買った。中学生か高校生くらいのときに、ギターの弦を切ったり、弦を押さえつけるピンを引っこ抜くために買ったものだ。僕はいま32歳なので、買ってから15年以上経過していることになる。使用頻度は決して高くないが、未だに壊れる様子はない。100円の買い物(×2)としては、安くつき過ぎな気もする。


100円ショップに並ぶ商品のなかには、売る側の儲けが大きいものもあれば、そうでないものもあるだろう。先ほどの僕のペンチとニッパーは、売った店側からしてみたら、ひょっとしたら「ぜんぜん儲からないけれど品揃えのために置いている」類のものだったのかもしれない。品揃えを良くして店に足を運んでもらって、いろいろ手に取って買ってもらい、店側の利益率の高い商品も含んだ買い物をしてもらうことで全体としての利益をプラスに保っている…とまあ、そんな実状を想像する。僕が15年以上前にあのペンチとニッパーを買った店がどこだったかは忘れたが、僕が長いこと住んでいる町にはずっと営業を続けている100円ショップがある。そう、少なくとも15年以上は続いていると思う。利益が少ない(あるいは、ひょっとしたら赤字の)商品も、利益率が高い商品も、店内にあるものは全て同じ値段で売るというサービスが成り立っていて、そのことを示す具体例が、僕の住む町にもあるということだ。(いや、ひょっとしたら誰かが資産を切り崩して道楽でやっているのかもしれないが)


売ってもあんまり儲からないペンチを売ることは、局所的にみたらただの「負担」かもしれない。でも、そういうものも一緒に並べて、「ここに来ればなんでもある(しかも100円)」というイメージ、「信じられる」とまでいえるかはわからないが「頼りにされる」要素をつくることで、全体的には「勝って」いるのだろう。「肉を切らせて骨を断つ」とはこんなことだろうか。野球の試合だったら、途中の経過がどんなものだろうと、9回裏が終了した時点での得点が高ければ「勝ち」である。100円ショップの中には、1回や2回や、ひょっとしたら8回あたりにおいても、「相手にくれてやる得点」に相当するような商品が混在しているのだ、とでも思っておこう。


100円ショップを例にしたけれど、こんなようなことが至るところで起きている。ネット上は、100円どころか「無料」でいっぱいだ。売る側からしてみれば、いくら多くの人に「無料」の蜜を吸われようとも、9回裏で勝てば良い。その逆転弾を打たせてくれるのは、絶対数としては少ないお客さんなのかもしれない。数えきれない「無課金ユーザー」の中に、ひと握りの「課金ユーザー」がいることで成り立っている「スマホアプリのビジネス」なんてのもあるだろう。


数多あるネット上の無料で読める記事なんかを、僕自身もよく読む。そして、僕が今書いているこの文章もまた、無料である。ビジネスとして「無料コンテンツ」を「運用」している営利団体は、きっと9回裏を終えたところでちゃんと勝っているだろう。僕はといえばどうだろう。この文章を書く取り組みが、計上可能なものとして僕に何か成果をもたらしているかどうかを判断するのは、難しい。僕は、僕自身に負担を課すことで、「9回裏」を延々と先延ばしにしているだけなのかもしれない。今が何回なのかもわからない。もうとっくに回収しきれない負債を抱えていて、「敗け」を告げられたくなくてムキになっているだけなのかもしれない。実はこの野球は特殊な仕様になっていて、塁が3塁までで終わらずに、4塁、5塁…100塁、1000塁と延々と続いていて、今の僕は100人も1000人も出塁者を溜め込んだ状況で、本塁の横に立つバッターなのかもしれない。さもなくば、その状況でマウンドに立って「守る」ピッチャーだとすれば、絶望的な状態ともいえる。ピッチャーならまだ華があるが、外野か、あるいはそれを眺める観客だったりするかもしれない。その観客にビールを手渡す「売り子」ではさすがにないと思う。


話が大きく逸れた。僕は、わりかしネット記事やスマホアプリにおいても、「無料の蜜」だけを吸い逃げする「客」であったり、あるいは100円ショップにおいても、店側にたいした利益をもたらさない「ペンチ(あるいはそのようなもの)」だけを狙って買って帰ったりする「客」であることが多いように思う。サービスを提供する側からみれば、「安い客」あるいは「客未満」である。サービスを受ける側からしてみれば、そうした「客(未満)」になれるタチ(質)を、「賢さ」ととらえることもできる。「賢さ」というのは、そんな程度のものなのだろう。9回裏の終了をもって「勝ち」を迎え入れるために必要なのは、たぶん「賢さ」より他にある。そんな気がしている。「敗け」をさっさと受け入れて、次の試合を始めるのに必要なのは「覚悟」だろう。大局観を持っている人ほど、ひとつの試合での勝ち負けにこだわらない。大事なのは、リーグ戦で勝ち抜くことである。勝負しているのは、何も自分たちだけじゃない。


人生でどれだけの試合ができるのか。ひとつの試合に満足せずに、次から次へと勝負を挑む「勝負師」になるのもいい。僕は「野球選手」になるよりは「勝負師」になることの方に魅力を感じる。そもそも、「野球選手」になるにはいろいろと手遅れだろう。「野球選手」でなおかつ「勝負師」という人もいる。そういう人のことは、カッコ良いと思える。ただ、みんながみんな「カッコ良い人」である必要なんてどこにもない。僕は一体、何で「勝負」できるだろうか。