等倍のソレ

起きてしまったことは、もう絶対変えられません。絶対変えられないことは、受け入れるしかないでしょう。あるいは、それを先延ばしにするかです。

これから起きることで、絶対に変えられないことがあります。それは「死」でしょう。こればっかりは、どんなにかわいくてうるわしくて有能多才なあいつもこいつもどこのこも、みぃんな等しく同じです。それがずいぶん先かすぐ先かは、場合によりますけれど。

過去に起きたことも、これから必ず起きることも、どうせ揺るがない不変の事実であるならば、希望的にとらえたほうがよいでしょう。ここにはある意味の「諦め」が含まれているかもしれません。厳密には、例えば「これまでに起きたこと」と「これから起きること」のすべてを正しく把握できたとするならば、何も諦める必要なんてないのかもしれません。そもそも、諦めざるをえないような幻想を抱かなくて済むのですから。これまでとこれからのすべての不変の事実を、いまこの場で正しく把握するのが難しいからこそ、ひとつなにかが明らかになるごとに、適切に「諦め」、事実を受け入れる必要が出てくるのだと思います。そして事実は不変であるならば、それを「悪い」ことととらえるか、「良い」ことととらえるかは、自分に任されていることになります。

「自分」という事実や、自分の身の周りの事実を、根本から悪くとらえたいと思っている人がいるとは考えにくいです。それなのに悪くとらえてしまう場合があるとしたら、それはきっとまだ事実を正しく見極めていないからなのだと思います。何かまだ幻想をいだいているところがあるから、事実の解釈に勝手に過不足を加えて、悪く評価したり、過大に評価したりするのでしょう。

事実にそうしたズレを付してしまった点は、どこにあったんだろう。帰するところまで帰すれば、必ず等倍のそれに再び巡り合えるものと思います。