「玉の輿」は性別を問うのか

納豆が好きだといったら、それが嫌いな人はその匂いを思い出して、そんな話は聞きたくもないと思うかもしれない。爬虫類とか昆虫が好きだという人がいるけれど、それらが嫌いで、想像するだけでぞっとするという人もいるかもしれない。

これは聞いた話だけれど、ある話し合いの席で、「玉の輿」という言葉を含んだ文芸作品について、その作品が男女平等の観点で差別的表現にあたるのではないかという意見が出されたらしい。ここではたまたま「玉の輿」という言葉だったけれど、他のいかなる言葉であっても、そうした問題点を指摘されかねない表現は数多ある。そうしたいかなる指摘も決してされないように何かを書いたり表現したりするのは、不可能だろう。先の件で問題点を指摘された文芸作品を僕も読んでいたけれど、自分ではその話を聞くまでは「玉の輿」という言葉が文芸作品において読み手を不快にさせたり、心を傷つけたりする可能性があるとは気が付かなかった。自分の持ち合わせていない視点を知ったり、死角に気付いたりすることは、非常に痛快なことである。くだんの文芸作品がなかったら、得られるのがずっとあとになる「視点」だったかもしれないし、得られないままどこまでも過ごしていた可能性だってある。

何かが起こったり生まれたりしたとき、それに対してどういう「反応」や「反響」があるのかを観察することに価値を見出せる。そのきっかけとなるものを自発的に生み出す行為が「表現」なのだと思う。文学だったり音楽だったり、その形はさまざまだ。いずれも、「反応」や「反響」との出合いをもたらすものといえる。「反応」や「反響」がないこともあるだろうけれど、「無反応」「無反響」という結果だけは少なくとも得られるだろう。全力で豪快に空振りしたならば、自分の力や技術が足りなかったことを悟り、次の「表現」を考えればいい。「全力でなかった」ことに問題があるならば、次こそは全力を出せばいい。あるいは単に、「方向性」の問題かもしれない。

何も発しないというのも、突き詰めていえば不可能である。発したならば、拾うものを拾って好きに行けばいい。流動する世界において、どこにも行かないというのも立派な「表現」となる。