なんともめでたい馬鹿ばかり

傷口を洗ったり、消毒したりするのは間違いだというのをどこかで聞いたことがあります。本当でしょうか。それまで信じられていたことが実は間違いで、まったく逆のことが信じられ始めるなんてことはそう珍しいことではないようです。

かつては「天」が動いていると信じられていたと聞きます。自分たちの足元の大地が実は「球」であるということも知らず、空の星々のほうが勝手に動いていたと認識していたんでしょうか。僕はいま、自分が吸い付いている地面は「球体」である、その「球体」は自転しているから空の星々が移動したかのように見える、と信じています。高い高い山の上に登って遠くまで見渡したときなんかは、実際に地平線がカーブして見えますから、なお僕は今の自分の「信じ込み」を深めるわけです。

ところで、この地面が本当に「球」であるというところまでは、自分の目で見たことがあるわけではありません。あくまで、他の人たちが大きな力を働かせて確認してきてくれたであろうことと、実際に自分が高いところにあがったときにカーブした地平線を見たという実体験を結びつけて、「あぁ、本当に球なんだなぁ」と確信しているのです。

「疑うほうが馬鹿げてる」と思われるほど、強い確証を持って事実として認識されていることが多々あると思いますが、本当に「自分の手を尽くして」解き明かした事実が、一体どれだけあるでしょうか。それが「事実」である理屈や根拠も、インターネットのおかげか誰でも簡単に知ることができるようになりましたけれど…。専門的で難しいことをすべて「理解」した上で僕らは「事実」を「事実」として受け入れているのでは、必ずしもないということがわかります。どちらかといえば僕らが頼りにしている基準というのは、「理解」というよりも「納得」に近いと思うのです。ああ、これはこういうものなんだな、と「受け入れて」「納得」しているだけです。

『男性は「XY」染色体を持っていて、女性は「XX」染色体を持っており、両者から片方ずつの染色体が子に託される。男性側から「X」が託されれば子は女性になるし、「Y」が託されれば子は男性になる。』なんてことを聞いて、僕はそれが事実だと思っているのですが、はっきり言ってそんなこと「自分の手を尽くして」確かめたわけじゃありません。ただ、「そうかぁ、そういうことかぁ。」とか、「そういうものなんだな」と、「受け入れて」「納得して」いるだけなのです。そうやって「納得」している事実は、このことに限りません。

いま認識されている「事実」を揺るがす新しい「理屈」が発見されれば、「事実」はひっくり返ります。そのほとんどに対して、実際に自分が「手を尽くして」いるわけではありません。同じことを逆からいうと、「自分で手を尽くして」いないからこそ、簡単にひっくり返るのでしょう。

『この地面は本当に「球」なのか?』…「自分の手」を尽くすことなく信じるも馬鹿、疑って自分で手を尽くすも馬鹿…となれば、この世はなんともめでたい馬鹿ばかり。なんつって。