君の同人誌を、僕にくれ。

最近気になっているのが、「同人誌」の世界です。この世界にいる人たちはみんな、身を削って、自腹を切って、自分のやりたいことを形にしたものを「即売会」などを通して交換するなどし、刺激し合っているように思えます。すごくたくさんの人が喜ぶような内容じゃないとしても、自分が追究したい内容をとことん追究している。そんな人が多いように見えるのです。


ところで、仕事というのは、広く社会的な利益になりそうなことを、ひとりひとりが身を切って立てていく作業であるそんな一面もあるように思えます。ときにはおもしろくないこと、いやなこと、つらいこともあるかもしれないし、自分の好みじゃないことに従事しなけりゃならないこともあるだろうと思うのです。でもそこで逃げてはならない責任があるのが、仕事かなと思います。


僕は、自分の幸福の追究のために音楽をやっています。というかそこは逆かもしれなくて、音楽を追究することが自分の幸せになっているのかもしれません。そして、僕の追究する音楽には、先ほど例にあげた同人誌の世界と通ずるものがあるように、最近強く感じています。たとえすごくたくさんの人が喜ぶような内容じゃないとしても、自分の追究したい内容をとことん追究する方を選んでいるのです。この言い方は少しおかしくて、厳密には、「自分の手指の赴くままに追究したこと」を、結果的に「自分の追究したい内容」と呼んでるだけですので、自分に果たして追究したい内容なんてものがあるのかどうか、僕は怪しいものだとも考えています。


さて、「自分の手指が赴くままに追究したこと」が、すごくたくさんの人が喜んで、社会的な利益になるようなことと合致したら、とても過ごしやすくなると思いませんか?「自分の手指のおもむき」に横槍をいれたり、妨げようとする人、もしくは歯止めをかける環境的要因が少なくなるわけですから。そんな都合の良さそうなことは、幻想でしょうか。


ひとつ、省みるべきことがあります。ここで僕がいう「手指の赴き」には、惰性が含まれているかもしれない、ということです。今まで動いてきた方向の通りに動き続けるのは、客観的に判断したとしてもそれを続けることに価値を見出すから身を任せているというのならまだ良いのですが、そうした考察もなしに、ただ慣性に抗わない方向に動いた結果を自分で否定しないために、あとから「自分はこれが好きなんだ」「これが自分の追究したいことなんだ」と思い込んでしまう危険があるのです。


「自分はこれが好き」「これをやるのが私の幸せ」ということと、広く社会的に利益になることがぶつかることは、とても生きづらいと思います。もちろんそこにぶつかりがあるとするのも思い込みで、長い目でみたらちゃんと「誰がなんと言おうと私はこれが好き」の追究が、広く社会的に利益になることにつながっているのかもしれません。ただ、あんまりに「風が吹けば桶屋が儲かる」的に、間に入るものが多すぎてそのフィードバックを本人が感じられないのもやはり生きづらいものでしょうしあれ、なんか考えが堂々巡りになっているでしょうか?


つまり何が言いたかったかといえば、「私はこれが好き」「これが自分の追究したいこと」というのを、一歩下がって見つめる視点をもって修正を反映したりすれば、本人が感じられるフィードバックも増えるのではないかということなんですが「それができたらとっくにやってるわい!」という声が、僕の心の中の同人誌即売ブースから聞こえてくるのは気のせいでしょうか