笑っている?笑わされている?

子どもを見ていると、つい笑顔をつくりたくなってしまいます。たくさんの知らない子どもが集まるような場所に行って一定の時間を過ごすと、顔面筋がつりそうになることがあります。それほどに、普段の平均値を超えて笑っているのかもしれません。僕の家には2歳の息子がいますが、家では「顔面筋がつる!」ということはありません。

「笑顔」には、メッセージが含まれているのでしょう。対象と友好的な関係を築きたいという発信なのだと思います。家にいる息子との間だったら、ある程度の関係が出来ています。しかし、初めて会う子が、それもたくさん出入りするような場所だったりすると、個別の子たちやその集合体としての場において、これから「関係(関わり)」が出来るわけですから、「私はあなたたちを歓迎しています」ということを示そうとするのだと思います。その結果、いつも以上に顔面筋をつり上げる時間が長くなり、しまいにはつりそうになるのです。

笑顔が自分に与える効果についても、最近思うことが多いです。例えば、「笑えば、その状況がたちまち肯定的に意識される」こと。作り笑いで良いのです。

夜、洗濯物を干していました。1日の仕事やらなんやらを終えて、ゆっくりしていたい自分がいるのも事実です。でも、干すときに笑顔をつくってみると、「俺、ちゃっかり結婚なんかしちゃって、子どもも授かっちゃって、家族と住んじゃって、みんなの洗濯物干しちゃったりなんかして…。自分が10代の頃なんて、こんな未来があるなんて想像もしなかったよ。何コレ、どんな奇跡なの?」などと思えてきて、意図的に作ったはずの笑顔は、作為なしの笑顔へといつの間にかシフトしているのです。

「意図的な笑顔」と「作為なしの笑顔」の境目が、どこにあるのかなんてわかりません。境目のわからないものを、無理に区別する必要はありません。いえ、そうした区別を考えることに学問的な価値を見出せる場合も、もちろんあるのでしょうけれど。

笑顔をつくるという行為は、その状況を自分が肯定的にとらえようとしている「反応」なのでしょう。つくろうとしなくたって、思わず笑ってしまうことだってやはり「肯定的な反応」といえます。

自分自身が「笑顔の生まれる場所」でありたいものです。

とりあえず、笑ってみてはいかがでしょうか?