絵コンテからの脱線

考えたことを考えたとおりに再現するだけでは、つまらないのではないかと思ってしまいます。もちろん、ゼロから生まれた「1」は、しっかり具現化してやるべきかもしれません。しかしその「1」を「10」だとか「100」だとかに膨らませるのは、実際にやってみたときのなりゆきが大きく影響してくるのではないでしょうか。もちろん、そのなりゆきが最初の「1」を変質させてしまったり、せっかく踏み出した一歩目の方向性をまるで無視したものになっていないかを常にモニタリングしながら、取捨選択を行なったうえで「1」を「10」や「100」に膨らませていく、…というのが、人間が発想したものを形にしていく工程のおもしろさなのではないかと思います。

僕は歌ものの作曲をするのですが、まず「弾き語り」として独りで演奏できる形を目指します。これが、映画やアニメーションでいう「絵コンテ」みたいなものに近いかもしれません。そこから、実際に生きて動いた「絵」にしていく作業に入ります。ドラムスやベースといったリズム、ギターやピアノといった和音の「背景」や「色づけ」を具体的に固めていく工程です。初めの「弾き語り」(絵コンテ)を形にした時点で、こうした「背景」や「色づけ」の具体的なイメージがある程度存在している場合ももちろんあります。ですが僕の経験上、こうした「先にあるイメージ」は、ぶち壊していった方が楽しいです。もちろん、闇雲にぶち壊すのではありません。実際に用いる楽器や機材、選んだ場所の音響的環境、マイクの立て方、そして演奏による表現など、その時どんな音が得られるかによって、「当初のイメージ」との差異が出てくることがあるのです。イメージと違うから、当初のイメージにぴったり沿うものや環境に寄せていくのももちろん有効だし、そうしたアプローチをとることはもちろん僕にもあります。ただ、現実的に用意できる設備や環境が限られています。僕のように完全に個人の規模で何かをつくることを楽しむ者ならばなおさらです。ですので、「今、ここにあるもの」で出来る最上の表現を工夫します。そうするうちに、ときに「当初の背景や色づけのイメージ」とはかけ離れたものになることがあります。そして、それが「良い!」ことが多いのです。僕はひとりでじんわりと、「ぶち壊しの味」を噛み締めることになるのです。

イメージ通りでないものの排除を続けることにも、限界があるでしょう。そのときそのときの場当たり的な出会いに「反応」する自分を見つけます。「絵コンテ」というのは、その最初の踏み出しの一歩なのでしょう。転がり始めれば、勢いを増していく。斜面に沿って、ときにぶつかって跳ね上がり、周りを巻き込んで大きくなることもあるでしょう。

自分自身が転がり落ちる石でもありますし、そうした一石を投じる側でもあります。石を転がす傾斜や斜面をセッティングしたり、転がしながらコントロールしたりするプロデューサーやディレクターもいるでしょう。そうした多くの役割を大人数で割り振って進んでいくときの「許容」と、個人規模ですべてをおこなう場合での「許容」も、またちょっと違うのかもしれません。「絵コンテ」という共通のものに向かって、どう進めていくのかを具体的に考えて実践していくという点では、個人でも集団でも同じです。周りを巻き込む規模が大きいときでも、最初の一石となる「絵コンテ」を描く作業を担当するのは、一人の人間である場合が多いと思います。多くの人間との関わりが、その一人に「絵コンテ」を描かせている、ともいえそうです。