スマホに指令 〜「本部」から〜

街の中。どこにいても見かける、スマホいじり。まるでどこか「本部」からの指令を受け取って、それに従って行動しているかのように見えなくもない。主体性のない操り人形のようです。SFみたいですね。そんな世界が現実であり、自分もまたそこにいて、こうしてスマホを見つめながら指先でつつくということを毎日ひっきりなしにやっているわけです。操られているように観察されても、仕方ありません。


「本部」があるとして、それが何なのか考えると何なんでしょうね。クラウド?  電波そのもの?  常識みたいなもの?  規範意識?  (スマホがない時代にも、「本部」は存在したんでしょうか?)  それぞれにそれぞれの「本部」が存在していて、似たような通信機器を使って四六時中交信しています。ある人の「本部」は友達(ときに個人、ときに集団)、ある人の「本部」は仕事仲間、ある人の「本部」は恋人(あるいはそれ未満)、ある人の「本部」はオカン・オトン。


はじめは「個」どうしの連絡のやりとりがメインだったでしょうけど、SNSが登場したことで「多」対「多」が当たり前になりました。友達も恋人も、会ったことのない知らない人も、憧れのあの人も目障りなアイツも、みんなみんなひっくるめて「本部」になりました。


「本部」とは何か。もう一度考えてみると、「つながり」だとか「関わり」そのものでしょうか。みんなみんな、多くの人が、つながりや関わりを持たずにはいられなくなっている。そんな状況に思えます。……無理に持たなくとも良いはずでは?……


通信機器を持たずに、厭世的に過ごしているかのような人も稀にいると思います。そういう人にとっての「本部」って、なんでしょう?  「自然」でしょうか。あるいは、それを含んだ「世界」そのものでしょうか。規模を広げてその時の文脈にとって都合の良い極端な解釈に走りがちという自分の思考のクセをわかっていながらもあえて続けますと、どんな人も必ず、世界とつながり、関係して生きています。そのつながりや関係の深さはそれぞれあるでしょうけれど、必ず何かしらの影響を与えあっているはずです。影響を与えあうことなしには、存在できません。ですから、スマホをいじって生活している人でも、本当の根本的な「本部」は世界、宇宙、自然そのものだと思うのです。でも、スマホをいじる多くの人の認識する「本部」の位置は、いくぶん(だいぶ)末端側に寄っているように思えます。「端末」を操作することでつながりや関係の構築を達成しようとするから、そうなるのかもしれません。


「本部、そんなに狭くねぇぞ」「もっと広いぞ」「いろいろあるぞ」「どこにでもあるぞ」「君自身も本部の一部だぞ」「自由だぞ」「かたちもいろいろだぞ」……とまぁ、自分も含めて言ってやりたい「本部」についてのことがいろいろと浮かびます。


こんなもん(スマホ)捨てても、決して「本部」はなくならない。