ひらけ!心の扉

ある編集者の方から、新しく出版する本の企画を立てるとき、「対象とする〈読者〉はなるべく絞ったほうが良い」ということを聞きました。読者を絞って本をつくると、その「刺さる深さ」みたいなものが予想以上の反響につながり、より広い層の手に渡る結果となることがあるそうです。また、企画を立てた当初に想定した読者像とは、かけ離れたパーソナリティを持つ人たちに届くなんてこともあるそうです。(僕のうろ覚えなのでねじ曲がりがあるかもしれませんが、そんなような話を聞いたことがあります。)


何か世の中のことをざっくり「総じて」とらえ、論じたりする(つまり「面」として把握し、扱う)だけでは、結局のところ、いかなる人の心の扉の中にも入っていけないのかもしれません。それより、たったひとつの事例(つまり「点」)でよいから、身をもってひとつながりの具体的なストーリーを経験し、それに基づいたアクションを考え、実践していくことが、結果的により多くの人の心の扉をひらくことにつながるのではないかと思います。


個々人の生活には、美しいことも醜いこともたくさん含まれています。かっこいいこともかっこわるいこともあります。胸を張れることもあれば、恥ずかしいこともあります。規範的なこともあれば、うしろめたいこともあります。どんなことにも、表があれば裏もあるのです。ひとつのことを語るときに、表のことだけではなく裏のこともしっかり語ることが、その「語る」というアクションをより広く深く届けることにつながるのではないかと思うのです。


個人の範囲でそれをするというのは、なかなか勇気のいることです。だって、自分の恥ずかしいこともうしろめたいこともかっこ悪いことも言いたくないことも、全部あけっぴろげにすることになるからです。自分がそういうことをすると、自分のごく身近な人を著しく傷つけたり、不快な思いをさせてしまうのではないかと、僕は心配になるのです。


匿名や筆名でそういうことをおこなえばよいのかもしれませんが、語られる内容が具体的であるほど、身近な者には勘付かれる可能性が高まります。また、それほどにエネルギーを注いでおこなう取り組みを、目につくほど身近にいる者に対して隠しきれたものではありません。自分のことを深く具体的にあけっぴろげにすることは、どうやっても身近な人を巻き込む結果になるのだと思います。


だからといって抽象的で表層にとどまった表現に逃げる(ここではあえて「逃げ」としておきます)と、結局またどんな人の心の扉の奥にも入って行けないということが起きてしまいます。僕はふと、そのことに息苦しさのようなものを覚えることがあるのです。それはつまり、僕自身が自分の心の扉を固く閉ざしていることの表れなのかもしれません。


誰かの心の扉の奥に踏み入ることが、必ずしも正しいわけではありません。それが良いか、好ましいかどうかは、場合によるでしょう。自分に置き換えてももちろんそうで、入って来てほしくない扉もあれば、もっと開いて来てほしい扉も数多くあることに気付きます。


いきなりドアノブに手をかけてガチャガチャと揺するのではなく、まずはコンコンと軽い音を立ててノックしてみる……そういったマナーを守ったり配慮をおこなうことで、いきなり取り返しのつかない事態を招くことを避けられるのかもしれません。ただ、それがいつでも最適かどうかはわかりません。幾千の扉をおくゆかしくノックして、何も返事がないというのを繰り返すうちに疲弊してしまい、一人の人生を押し流すなんて造作もないほどの力をもって、「時間」は流れます。


……「ここだ!」と思う扉があったら、こじ開けてでも入るべき。そんなことはきっと人生に何回もないだろうから、自分を信じて、失敗すればいい……


そんなひと言を、僕は自分の心の扉の前に黙って置いて去っていく。結局のところ、扉というのは開けられるものでなく、自分でひらくものなのでしょう。