「さみしい」と「かなしい」のちがいについて

かなしいとさみしいは、どうちがうのでしょう。ぼくのイメージをお話ししますと、かなしいは「あるかもしれないと期待したことが得られなかったときの気持ち」のような感じがします。ひとりでも、勝手にかなしくなれるのです。

一方、さみしいは「それまであったものがなくなったときの気持ち」といった感じでしょうか。ひとりでも複数でもさみしくなれますが、それまでそこにさらに別のなにかの存在があり、それがなくなったことによって変化を強いられる不安定さを感じている……そんなニュアンスでしょうか。

いなくなる「その存在」を含んだリズムが日常化していたときほど、いなくなったときさみしくなります。いなくなったものが、からだを使って行動するきっかけを与えるものであればなおさらです。そのために遣っていた時間やエネルギーが余ってしまうからです。その時間やエネルギーの余剰分が、人をさみしくさせるのかもしれませんね……。

あたまのなかで思い出すのも立派なからだの一部を使った「行為(行動)」だとぼくは考えるのですが、たとえばもともと近くにいない「(物理的に)遠い存在」の人が死去した場合はどうでしょう。

それが仮に好きな歌手だったとします。その人の歌をCDでくり返し聴き、聴いていないときでも思い出してあたまのなかで再生したりしているとします。そこに、その歌手が亡くなったという報らせが舞い込みます。CDはよく聴くけれど、コンサートを観に行くことまではしていませんでした。そうすると、その人のなかで特別なにかがなくなるわけではありません。CDはあいかわらず手元にあります。新曲が出なくなるというくらいでしょうか。そのことが、さみしさにつながるかといえば、どうでしょう……。

さらに言えば、ある歌手を好きになった時点で、すでに亡くなっている場合があります。それ以上うしなうものがありません。気に入って聴いていたCDを紛失してしまったら、ひょっとしたら「さみしい」かもしれません。けれど、思い出せるかぎり、その歌手のじぶんに与えるこころの影響は消えません。

「かなしい」は、なにか「期待したおれが馬鹿だった」というような嘆き、あるいは「あきらめることを受け入れた」、諦観のようなニュアンスまで感じてしまうぼくは、行き過ぎでしょうか。におう・香りがする程度ではあるのですけれど……。

物理的な死のあとには社会的な死があるという、そんな話をどこかで聞きました。「さみしい」は、身近な存在の物理的な死を経験した人のこころに起こる生理現象、および身体反応……といったところなのかもしれません。