観る前にその映画のなにがわかるのか?

「ズートピア」という映画を観ました。鑑賞する前、この映画をいろいろな「集合」に勝手にあてはめていました。「CGアニメ」「動物(をモチーフにしたキャラクターが描かれた)もの」「こども向け」「よく耳にする有名な制作会社の作品」、などなど……。

観終わってみると、ぼくがあらかじめあてはめていた様々な「集合」は、ときに適切とはいえない「偏見」であったり、そこまででなくとも、さして意味もない「くくり」がいかに多いかということに気付きます。鑑賞して、ぼくは「ズートピア」というひとつの作品を「個」とみなしたのです。

このことを例にかんがえてみると、ぼくたちはよく知りもしない、特に直接会ったことのないもの、こと、人のことを、なにかと「集合」にあてはめて認識しようとする「クセ」があるのかもしれません。あ、いまもぼくは、「ぼく」と限定してもいいはずだったところを「ぼくたち」などという「集合」を指してものを言ってしまいました。

このことがべつに、悪いわけではありません。ことばというのは、もうほとんどが「集合」といえるでしょう。「集合」の「集合」とでもいえるでしょうか。おとな?  こども?  おとこ? おんな?  学生?  社会人?  民間人?  公務員? 人を指すものだけじゃなく、動物?  植物?  有機物?  無機物?  もの、概念、ありとあらゆる「集合」に対応した「ことば」があるのです。

ですが、またおかしなことをいいました。「ありとあらゆる集合に対応したことばがある」なんてことは、ないのです。いえ、自信はないのですけれど……そんな気がしています。

ぼくは「青沼詩郎」という名前をもった人間です。「おとこ」とか「30歳代」とか、「集合」にあてはめようとすればいくらでもできるのでしょうけれど、このさしてとりえもない愚鈍なおとこひとりをことばで完全に説明しきれるかといえば、どうでしょう。きっと難しいのではないかと思います。「青沼詩郎」は「青沼詩郎」ですし、「ズートピア」は「ズートピア」なのです。

ぼくは一体なにものなのか?  あの映画は、どんな映画なのか?  ことばは、それらを認識する際の手がかりになるもの、といったところでしょうか。「集合」に属するものであると同時に、「個」でもある。まだ出会ったことのない「個」の存在は、人生を楽しくさせます。