たのしみの循環ステージ

熱心に釣りに行っていた時期がありました。釣りに行く日を決めて、その日を楽しみに待って。最近では、めっきり行かなくなってしまいましたが。


「ここ、魚いそう」「釣れるかも」「いや、絶対釣れる!」そう思ってルアー(疑似餌)を動かしていると、ほんとうに釣れることがありました。もちろん、釣れないときの方が多いのですが。


自分の動かすルアーは、どこかから魚に「見られて」いるだろう。そんな緊張感を持って釣りをしていると、たとえそのときその場で釣れなくとも、不思議と楽しいものです。ルアーで魚を誘惑する「演者スイッチ」が入っている状態、とでもいいましょうか。


一方で、「もう魚がどこにいるのかわからん」「ホントに魚いるのかね」「こんなとこ絶対いないでしょう」といったような思いに満たされてしまうこともありました。完全に演者スイッチが切れている状態です。そんなときは、ルアーの動かし方もテキトウになります。(悪い意味での「適当」です)もし魚に見られていたとしても、そんなルアーに食いついてもらえる可能性は低いでしょう。釣れたとしたら、その魚はよそ見をしていて引っかかってしまったか、もしくは釣り人を喜ばせる「サクラ」かなにかかもしれません。アテズッポウ投げる、テキトウに動かす、釣れない……とにかく、「たのしくない」がループします。


そんなときでも、ときおりなにかの間違いで釣れてしまうこともあるのです。こちらはもう釣れるなんて思ってなかったので、たいへん驚きます。釣り上げて、「ホントにいた!」「釣れるんだ!ココ」と心を入れ替えます。演者スイッチをオンにして、そのまま2尾、3尾と続くこともあれば、幻の1尾で終わってしまうことももちろんあります。


ぼくが釣りに行くときは99パーセント、岸辺を歩いての釣りでした。ほとんどボートには乗りませんでした。自分の足で歩いて歩いて、魚を探し回って「演じる」のは、釣れても釣れなくても楽しいものでした。その「楽しみ」が、1日釣れなかったときの保険といいますか、いいわけのようなものでもあったのかもしれません。


はじめから「釣れなくても楽しいんだよ」なんて道理を心の中に持って行くなんて、ほんとに釣る気で行く人に軽蔑されてしまうかもしれません。もちろん、ぼくひとりの中にだって、「何を弱気なことを。今日だって絶対釣るんだぞ?!」という人格が居合わせています。ぼくは、そうしたいくつかのじぶんの人格を率いて、たったひとつのからだを動かしています。


いくつかの人格が入れ替わり立ち替わり、たったひとつのからだを動かすリーダーの座を奪い合っているのかもしれません。あるいは、譲り合っていたりして……。だれもその座についてくれないから、しかたなくテキトウな人格がリーダーになって、テキトウな行動をしている……たのしめていない、つまらないときって、そんな状況なのかもしれません。


ハイハイ!おれおれ!  といってすすんで席につく人格をじぶんのなかに持てば、たのしさが循環するのでしょう。