創作物の人権

「仕事が趣味です」なんて言いかたを、する場合やされる場合があるようです。趣味とは「たのしいもの」全般だと思えば、そんな言いかたが成り立つのもわかる気がします。

「趣味のために生きています」なんて言いかたを、する場合やされる場合もあるようです。仕事と趣味をキッチリ分けて、趣味を継続するために仕事を継続しているという人がいるのも、わかる気がします。

仕事がたのしくって「仕事が趣味です」状態、なおかつ「趣味のために生きています」なんて言ってしまう場合は、仕事が生きがいに含まれているであろうことがうかがえます。毎日の1/3〜1/2程度(人によって異なりますが)を費やす「仕事」が「生きがい」であるというのは、精神衛生上良さそうな気がします。実際のところはどうなのかわかりませんが。

趣味に費やすための余暇やお金を仕事によって調達している場合、仕事と趣味は根底的には不可分なものかもしれない、とも思います。仕事と趣味が違うからこそ、それぞれの場で得た異質な刺激がもう一方に作用する、という構図です。たとえば、仕事で溜まったウップンを趣味で晴らすといった場合、溜まるウップンがなければ晴らすウップンもありません。はけ口である趣味のもとに、「はけるモノ」がなくなった場合、その趣味はどうなってしまうのでしょうか。「趣味〇〇、閉店しました」といったことが起こりうるのかもしれません。

「生きがい」を「仕事」にできているかできていないか、といったことが議論の的になることがあります。たとえば小説を書くことが生きがいの人が、小説を書くことを仕事として成立させているかどうか、といった具合にです。小説を書くことそのものがその人にとっての生きがいになっている場合、重要なのは、それによってお金や時間を支払うか受け取るかではなく、「人生において小説を書けるか書けないか」であるはずです。仕事(労働)は毎日の時間を1/3〜1/2とられる行為であるからして、「生きがい行為(たとえば、小説を書くこと)」をそこに充てることができたら、もっとその生きがい行為や、あるいは他のことをやる時間が持てるかもしれないと考えるのもわかる気がします。

しかし、なにかがおかしい……なにかが気になってしまいます。わたしは、仕事としてだろうと趣味としてだろうと、生み出されたひとつひとつの「小説」たちが、「人権」のようなものを得てフラフラと動き出すさまを見たいのです。規模の大小はさまざまでしょうけど、「人権」を得たそれらはときに、わたしに、ほかのだれかにはたらきかけます。生きた人間みたいな機能を持って、関係をむすびはじめるのです。そのことこそを、わたしはおもしろいと思うのです。