きみに、質問があります!

「むしろってなんですか?」

最近、僕が放った質問のなかのひとつです。

「ええっ、むしろ、知らないの?」

という反応が、職場の先輩から返ってきました。それから、むしろとはコレコレこういうモノで……というご説明をいただき、何やら「むしろ」は、ゴザにも似たような、乾燥させた植物の繊維をつなぎ合わせた敷物のようなモノらしい……ということがわかりました。

いま、僕は、勤めている職場の中で一番年少者です。おおむね他のメンバーはみんな、少なくとも僕よりもひと回り(12歳以上)は年上です。

明らかな年少者、という意識があるせいか、僕はわからないことがあるとき、気をつかうことなく気軽に質問ができます。ありがたいなぁと思います。でも、たぶんこれは、僕が年少者だからそうなのではないでしょう。それぞれべつの生き方をしてきた人間がひとところに集まれば、ひとりとして同じ知識を持つ人はいないでしょう。誰かが知っていることでも、知らない人がいてあたりまえです。

このことは知識だけでなく、理解においても同様のことがいえるでしょう。誰かが理解できることでも、理解できない人がいるのは自然なことなのですね。わからなかったり、わかってもらえなかったりする。そのことに腹を立てて、ぶつかり合ったりののしり合ったりすることは賢明ではありません。わかり合えなければ、落ち着いた態度で一歩でも二歩でも戻って、同じ立ち位置で同じものを眺めることができそうなポイントをさがせば良いでしょう。

とはいえども、べつのバックグラウンドを持ったべつの人間同士なわけですから、いつでもそうした丁寧なすり合わせが実を結ぶとも限りません。どうしてもかたちの違うものどうし、ぶつかることがあるでしょう。そうしたときは、ぶつからないで済む、適切な距離をおくことで、お互いの全容を認め合うことができるのかもしれません。

さて、この文の書き出しは「質問」に関することだったかと思います。「質問」することって、こう、共通の全体像みたいなもの、共通の前提を分かち合えていないときに、なるべく公平な距離感、それぞれにとっての適切な距離感で同じ対象物をみつめるための調整みたいなものかもしれません。お花見でいったら、「場所とり」でしょうか。「あそこに鳥がいるの、見える?」なんて共通のことを話題にしたいときは、なるべくお互いにそれが認められる位置にすり寄らなければなりません。わたしは明るくてにぎやかで近くで花が見られるところがいいとか、ボクは静かで薄暗いところから遠まきに見ていたいとか、普段はそれぞれに自由にしています。

共通のことを話題にしたいとき、声の届く範囲に人がいる……くらいがちょうどよいのかもしれません。近すぎてなんでもかんでも丸聞こえとか、遠すぎてどんなに叫んでも誰にも届かないとかでも困ってしまいます。「質問できる距離感」。これに尽きるのかもしれません。