ゲリラお茶会 〜集中と分散のはざまで〜

読みかけの本をひらいた瞬間に、べつの読みかけの本が気になってしまうことがあります。せめていま手にしている本を1〜2ページくらいは読んでから気になった方の本に移ってみようと思うのですが、もう気持ちがそっちにいってしまって、1〜2ページ読了するのにも難儀してしまいます。

難儀しながら1〜2ページ読んでいるうちに、気持ちがべつの本にいっていたはずがいま手にしている本の方に注がれはじめ、1〜2ページ読了後に当初気になっていたべつの本に移ろうという気持ちは霧散してしまい、結局3ページ、4ページ、1項、1章まるごと、そのままその本を読んでしまう、なんてことがあります。このことは、「やる気は、やり始めると出てくる」ことの裏付けなのかもしれません。

パソコンやら資料やらに向かって、難しい顔をしているという場面が自分にもあります。緊急性がないときのほうが、なぜかそういう顔をしてしまっていることが多いような気がします。たとえ大変で困難であったとしても、たやすく楽ちんなふうに取り組んでいるほうが精神衛生上良い気がします。なのに、なぜか、大変でつらそうにしていないといけないような気がしてしまうのはなぜなんでしょうか。苦痛を味わって困難に立ち向かっている人ほど偉い、というような風潮があるかのような潜在意識に支配されているのかもしれません。そんな風潮はまぼろしで、本当はどこにもないと思うのですが。そういう風潮があると信じているかのようなふりをすることが、マナーであるかのようです。そんなマナーもどこにもなくて、まぼろしだと思うのですが。

なんだか、自分はありもしないまぼろしに振り回され、支配されてばかりいることに気がつきます。そんな支配と、わざわざ自分から手をつなぐ必要はないでしょう。多少馬鹿に思われても、奔放にしていて怒られるくらいでちょうど良いのかもしれません。迷惑をかけるのは、本意ではないのですが……人の目や人の気持ちに、案外自分はびくびくしながら生きているのかもしれません。

集中は、べつのものの排除とも言い換えられるでしょう。集中と分散のあいだにはっきりとした境界があるわけでもなく、いつもぼくらはその間をいったりきたり、なんともいえない場所に腰をおろしてお茶を飲み始めたりしています。お茶しているときって、集中しているのでしょうか?  分散しているのでしょうか?  どちらでも良いですが、お茶しているときって、幸せですよね。