愛と、よそ見。

先日、1匹の蜚蠊を殺した。(「虫」という部首を含んだこの2文字が意味する生き物は、カタカナ4文字で表してもなんら問題ないのだけれど、なぜかその4文字を視認したところ視覚的な抵抗感を覚えたため、あえてこの使い慣れない2文字の「虫」という部首を含んだ漢字を用いて表すことにする。)その数日後、2匹目の蜚蠊を殺した。このふたつの出来事は、いずれも僕の実家で起きたことである。


たったいま僕は、この文章を書き始めるにあたって、2匹の蚊を殺した。べつに、それが必要不可欠なことだったはずはない。僕のからだにとまった蚊を1匹、2匹と叩きつぶしたのだけれど、すでに血を吸う作業はいくからかの段階を経たあとのことだったらしい。叩きつぶしたけれど、結局かれらがとまっていた部分は小さく膨れ上がり、僕はかゆみを覚える。なんのために殺したのだろう。



「嫉妬は愛の変形である」



このワンセンテンスを心に念写する。蜚蠊が介入しない生活。蚊にくわれない生活。僕は、こうした生活を求めすぎているんじゃないだろうか。ある意味、理想とする生活を求めた過剰な防御反応が、先ほどの2匹+2匹の殺生行為という結果を招いたのではないか。


こんなことを「嫉妬」や「愛の変形」と結びつけることは、おかしいだろうか。いちがいにそうともいえないんじゃないかと思ってしまう。いや、たしかに、自分の居住空間に、あの黒く素早くうごめく動物がいたら、心安らかにはいられない。少なくとも、僕はそうだ。あれほど、実際の寸法よりも過大に見える生き物もそうそういないように思う。あの黒く、生命力のみなぎった、人類の歴史を凌駕する地上の大先輩たちのことを思うと、どうも議論の焦点がぼけてしまう。少し距離をおいておきたい。


蚊はどうだろう。僕はわざわざ、自分のからだにとまって動きが落ち着いたところを狙って殺生していることが多い。その時点で、殺したところで自分の皮膚の表面がちいさくふくれあがり、かゆみを覚えることはある程度決まっているともいえる。この顚末がいやならば、からだにとまられる前に逃げるとか、振り払うとか、空中で拍手をするかのように仕留めるとかしないとならない。ただ、やらなけらば、やられる。その場に居続ける限りは、振り払っても再び追ってくる。からだにとまる前の彼らを両の手をつかって圧殺するのは、不可能ではないが、やや成功率が低く、難易度は高めである。彼らがついて来られないくらいのスピードで、すみやかにその場を去るのがいちばんかもしれない。その場合は、自分がその場にとどまるという自由をあきらめなければならない。


どうも、嫉妬や愛の変形について考えようとすると、論点がずれてしまう。それだけ、まっすぐ見ようとするのを逸らしてしまう、そういう力があるのかもしれない。だから、嫉妬や愛の変形を自覚するのはむつかしい。そして、他人の目からは、滑稽にみえがちだ。そういう様子が、お芝居になることもある。他人の嫉妬や愛の変形を観察する経験を重ねたら、自分のそれに気づけるようになるだろうか。この検証には、そこそこの時間や金銭的コストをかえりみない余白が必要になりそうだ。その余白がない場合、僕らは嫉妬や愛の変形とつきあいつづけねばならない。


そのことと、僕たちの生活空間から蜚蠊や蚊がいなくならないことと、いったいなんの関係があるというのだろう。