ひとりにひとつの世界かどうか

明瞭な発音のためにじゅうぶんな時間を割かず、早口で話す人にでくわすことがあります。ただでさえワンセンテンスに一度は訊き返さないと理解できないくらいなのに、にぎやかだったり、環境音の大きい場所だったりすると、もう絶望的に聴きとれません。

おなじ言語を用いて話しているのに、理解や共有の度合いに差がうまれます。聴きとれない例を挙げましたけれど、ちゃ〜んと聴きとれていても、いまいちあたまに入ってこない場合もあります。理解や共有に向かっていくための、「話し方の段取り、構成のしかた」「ひとつひとつの単語に込めるニュアンス」やなんやらが、人によって違うのです。個人の流儀なのかもしれませんし、方言みたいなものかもしれません。

また、ときおり、ことばや文章の列挙でまくしたて、伝えたいことの核心がまるでキャッチできないということが、誰かの話をきいているときに起こります。ぼくの理解力、共感力、骨子を感じて自分のなかに再構築する力、語彙力といったものがないだけかもしれませんが、そんなとき、「こやつは何を言ってるかわからん」「流暢で舌が立つようでいて、何ひとつ中味のあることを言っていない」などと、批判的なつぶやきで胸のなかが満たされていくような想いがします。

聴き取れたし、理解もできた!  納得もした!  ぼくはこの人とわかりあえた!  と思ったとしても、まぼろしであることさえあります。お互いにそう思いあって、うまくいっている、関係が成り立っているということが、世の中にはいくらでもあると思います。言い過ぎかもしれませんが、大なり小なりを問わなければ、ひょっとしたらすべての関係についてそれがいえるかもしれません。ぼくらは、ひとりにひとつの世界を、さもみんなでひとつの世界かのように納得しあって、こころのなかで手をたたいているのです。ああ、なんと滑稽か……。

理解できても認めなたくない、しらないふりをしていたい、あるいはわたしには関係がないという主張の発現(あるいは非・発現)として、「無視」があります。SNSをやっていると、頻繁に感じることでもあります。反応しなかったのか、できなかったのか、そもそも存在を認知されなかったのか、といところまではわからず、ネット上の「無視」をどうとらえるかは、モニタを見つめる個人の裁量にかかるところが大きいでしょう。というか、そんなところに裁量なんてものを持ち出すこと自体が、お門ちがいかもしれません。無視かはわからないけれど、「無反応」は「無反応」なのです。

だれかが、「A」と言った。「Bは、Cだ」と言った。事実はそれだけのことであって、「あいつはAと言った。BはCだとも言った。つまり、あいつはDなんだ!」という結びをつけて理解するのは、個人の中で起きること。それこそが、ひとりにひとつの世界なのです。もちろん、ひとりにひとつの世界が寄ってあつまれば、銀河にもなるし銀河団にもなるでしょう。宇宙さえも、ひとつであるともかぎりません。