ひとりごとの規模

ぼくが日常的に顔を合わす人って、おおむね決まった人です。職場には4人の同僚がいますが、彼らがその中に含まれます。家族はもちろんそう簡単に顔ぶれが流動するわけではないので、やはり決まって顔を合わす面子に含まれます。

ぼくの職場は、組織といえば組織です。また、組織のなかでのアウトロー集団といえなくもない、ちょっと「外れた」存在でもあります。抽象的なことをいっていてもわからないので「つまり」をいってみますと、公的な教育機関なのです。地方自治体という行政組織の一部でもあるのですが、教育機関という独立した存在でもあるのです。このへんの二重性が、ぼくのような末端の人間さえも頻繁に悩ませるのにじゅうぶんな出来事を日々引き起こしている……といえなくもないのですが、そのあたりの話はまた機会をあらためることにしておきます。

きょうお話ししたいこととしては、そうした「組織」の中でも、もっと集中的でなく、一見無秩序に、散漫にいろんな人どうしの話し声が飛び交う環境だったらいいのにな、と思うということです。というのも、なんだか、たとえば部署を飛び越えて話をしようとすると、勝手ながら壁を感じてしまうのです。わざわざ部署を飛び越えて連絡してくるには、よっぽどなにか差し迫った用事だとか、優先度がなによりも高い用件でなければならない、みたいなことを勝手に感じてしまうのです。ただのむだ話で終わるかもしれない話を、気軽に発信しづらいのです。

こちらとしてはもちろん、そのむだ話で得られたもの次第で、未来の「優先度・極高」な案件として実るともわからないつもりでいるのですが、そんな保証があるわけでもなければ、普段顔を合わせることもない見ず知らずの男が急に電話をかけてくるという行為に出ると、相手にいったい何事かと思わせてしまうのではないかと、勝手にしぼんでしまいます。

無責任な発言が、やがて責任をともなうような大きな事業に発展することもあるのではないかと思います。ぼくには縁遠いもので、試す機会もなければ実証する機会もいまのところありません。チャレンジ精神がないわけでもないのですが……今後見つけていきたいことでもあります。

無責任な発言や思いつきとしてはじまり、最後までたいして責任をともなわないままに終わるようなことばかりを、これまでの僕はやってきた、やり続けてきたように思います。最後まで責任をともなわないままに終わるといいますか、単に自分で言い出したことの成果が自分にかえってくるのみにとどまるようなことばかりをしてきたということです。成功しても失敗しても、おもに自分だけが一喜一憂するに過ぎないというようなことばかりを。

だれかが言い出して、それおもしろいね、やろう!  となってみんなでやって、成功しても失敗してもみんなで喜んだり悔しがったりすると、こう、かけあわせ効果みたいなものが生まれて、喜びも悔しみもつぎにつながる学びも、単純に成果を頭数で割ったときのひとりあたりの見返りとしても、大きいものになるのかもしれません。規模の大小に尊卑があるとも思いませんが、そのことを知って規模のことを意識する視点も、持っていた方がよいのだろうなぁとは思います。

(そもそも、「ひとりごと」に規模もくそもない)