アンチ・クリエイティブの幻影

たとえばいまの仕事がいやだとか、毎日顔を合わすあの人とうまくいかないとか、そういった重くのしかかるストレスになるようなことがあったとします。ひんぱんにそのことを思い出して、ああいやだなあ、けれど今日も仕事に行かなければいけない、苦手なあの人にも会わなければならない……なんてことがあるかもしれません。

ひんぱんに思い出し、何度でもそのことについて考える。なにかについての解決を導いたり、発想したりということのカギが「思い出す回数、頻度」にあるとするならば、重々しくストレスに感じているようなことほど、真なる解決や現状を打開するアイディアを心から望んでいることだといえそうです。

そうして何度も思い出して考えつづけた結果、いまの仕事をやめにして新しい仕事につくとか、うまくいかない誰かとうまくいくようにするためのなにかしらの機会を持つとか(あるいは金輪際もう会わなくて済むようにするために何かするとか)するわけです。

発想が仮にクリエイティブなことだとしたら、クリエイティブな行為って、キャッチコピーを考えるとか、音楽や絵画を生み出すとか、かつてないどんでんがえしを持ったミステリー小説を書くといったようなことだけでなく、転職するとか、なにかと離別するとか、そういった生活に即した場面でもひんぱんに起きていることだといえそうです(もちろんコピーを書くことや音楽や絵画や執筆が生活に即している場合もあるでしょう)。

あるいはその真逆ですが、「現状を変えない」というクリエイティブ、創造の定義をくつがえす創造もあるかもしれません。これはアンチ・クリエイティブとでも言ったほうが的確でしょうか。「変えないといけない」という思い込みをぶち壊すのです。いえ、それではアンチでもなんでもなく、ただのクリエイティブなのでは……?  はいはい、なにか言ってらっしゃいますね……と、冷たい視線を送る僕自身をいま自分の中に感じながら、こんなことを述べているのですが……。

「ほんとうに変えないといけないかどうか」さえも、やはりくりかえしくりかえし、何度もしつこく思い出しては答えが出ずに保留にし、また思い出してこねくり回しては放りだし……というプロセスを経て検討されます。そのうえでの「変えない(変えられない)」という結論は、現状での最上の答えなのではないか……なんてことを思います。