夏の空には、なにがある?

1945年のきょうの時点で、現在の僕の年齢と同じ32歳だった人は、今では105歳ということになります。生きていらっしゃる方もいるかもしれませんが、ほとんどの方が亡くなられているかと思います。


僕の働いている社会教育施設では、毎月発行している便りの1面記事で、毎年8月になると戦争特集を掲載しています。いつから始まったことか把握していませんが、2年ちょっと前、僕がそこで働き始めた年より前から掲載していたことは確かです。


僕の住む町、そして働いてもいる町の近くに、武蔵野中央公園というのがあります。そこは、かつて中島飛行機武蔵製作所といって、飛行機の需要な部品(エンジンなど)をつくる工場だったそうです。そのため、戦時中、たびたび空襲の標的にされたそうです。本土空襲における第一目標だった、とも聞きます。それほどに、敵軍からみれば一番に優先して破壊したい目標だったともいえます。


1944年11月24日に1回目の空襲を受け、それから9回に渡って空襲が続いたといいます。死者は220名。負傷者266名。現在の武蔵野中央公園には、そうしたことが書いてある5枚のパネルが立っています。かつて中島飛行機武蔵製作所だった一帯の、ほぼ中心地にあたる場所です。


僕は、夏雲が嵌った空を見上げてみました。大きく、雄々しく、白とグレーの濃い油絵の具をがさつに塗りつけたみたいな雲でした。旅客機か輸送機か軍用機かわからない飛行機が一機、視界を横断した痕跡を残してエンジンを鳴らす音が聞こえていました。遠く、かつはっきりと聞こえる、孤独な音でした。


1945年、その年の2月17日には、いま見上げているこの空いっぱいに、63機の爆撃機がやってきたといいます。工場はそれまでの空襲とは一線を画す規模で破壊され、工場内だけで80名が亡くなったと、そこにあったパネルに記されていました。


20分ほどそこにいて、僕は夢中でパネルを読んでいました。途中、パネルを見にやってきた男性がひとりいました。犬の散歩や、ランニングをする人がまばらに近くを通って行きました。僕は一人でいたけれども、もし友達と来ていたら。僕たちの頭の上から爆弾が降り注ぎ、その友達の身体をばらばらに吹き飛ばしたらどうだろう。なんとなくいつも、戦争の記録が物語るのは別の世界で起きたことのような気がしていたけれど。想像の中でばらばらになった、架空の友達。その姿に、戦争はいまの自分たちに続く、本当にあったことなんだと思えてきました。


僕がいまここで、手や指をつかって端末を操作する自由もなにもかも、かつてあったことの延長上にあるのだということ。8月の空から、ぽっかりと降りてきたような。夏の空には何かがあるのは、かつて夏の空に何かがあったから。


かつてあったものは、いまもある。