勝負のステージ

負けないと、成長しない……敗北は、人を強くする……だとしたら、勝ち続ける強者は、成長の機会に恵まれていないのかもしれません。では、勝ち続ける者が成長していないのかといったら、必ずしもそうでもないような気がします。


勝敗は、一定のルールのもとや、判定の基準となるものによって決まります。それがないと、決められません。


逆にいうと、勝敗は、そうしたルールや判定の基準に照らし合わせた場合に得られる、単なる「称号」みたいなものともいえます。


強者が成長していないかというと、そうでもなさそうだ……という話に戻りますと、成長とはつまり、自分自身と勝負をして、敗けた場合に得られる伸びしろ……その伸びしろがめでたく埋まった際の差異、みたいなものでしょうか。


表面的にはうまくいっているようにみえても、たとえば、かつては含まれなかった新しい要素を盛り込んで成功させないことには、自分の中では敗けである……とした場合、その人は成長するのではないでしょうか。


心から、2度とこんな思いをするのはごめんだ!!  と思えるような経験が、その人を成長させたり、新しい知識や技術を身につけさせたり、それまでにはなかった発想をさせたりします。


僕個人の経験を言わせてもらえば、歌唱を含んだ本番のステージでまったく声が出なくなり、30分間の演奏時間の残り9割を過ごさなければならない……ということがありました。このときは、数人のバンド編成での出演で、自分はギターボーカルを担当していたので、カスカスの子音のみが漏れ出たような声で、ギターとバンドのカラオケ伴奏みたいな演奏を残った9割の時間さらし続けて、その日のステージを降りるという顛末になりました。


この経験を経て、僕は「たおれても  たおれても     立ち上がり  笑いながら息をするんだ」という詞がサビ部分で歌われる曲を書きました。七回転んでも八回起き上がる、その瞬間を切り取った歌でした。先の経験がなければ、絶対に発想しなかった曲だと言い切れます。その後、この曲を持ってライブハウスをまわって歌っているうちに、僕は八回目の起き上がりを果たしたように思います。


そういう意味では、腹がちぎれるほど悔しい敗けには、必ずひとまわり大きくなるための伸びしろがついてくる……といえそうです。自分が本当に本当に、悔しがればの話ですが。全力でぶつかって敗けたのならば、その悔しさは確実についてくるものと思います。


スポーツは競技ですから、勝ち負けがつきまといます。勝ちや負けの理由を、自分の外側に探そうとすれば、きっといくらでも見つかることでしょう。


「弱い」ことのうえにあぐらをかいて、「どうせ敗ける」といって全力を出さなければ、敗けたときに伸びしろは生まれません。


「強い」ことのうえにあぐらをかいて、自分との勝負を放棄した場合でも、同様に伸びしろはついてこないでしょう。


勝負となるステージがなんなのかはその人によってさまざまで、ルールや基準に則った勝ち負けが存在する競技かもしれませんし、僕のように歌唱や演奏といった、表面的な勝ち負けのわかりづらい(あるいは表面的には勝ち負けが存在しない)ものかもしれません。


誰しも、自分との「勝負」ができるステージを選んで、毎日を戦っているのだと思います。