おばけはこわい

おそらく「右翼」と呼ばれるであろう人たちが走らせる黒い車が、爆音で「君が代」をかけながら街道の列の中にいたのが見えました。通勤途中だった僕は、視界の端っこにかれらを認めながら、そのまま街道とわかれて職場に向かう道を行きました。


職場に着いて、「きょう、終戦記念日ですね。爆音で〈君が代〉流してる車、見ました」といったことを同僚に話しました。「ああいう人たちって、なにが望みなんだろうね?」といったような話になりつつ、さらりと流れていく朝の会話。できることならこのまま1日、右翼のことだとか天皇のことだとか戦争のことだとかを、職場のとなりにある図書館で調べて過ごしたいところでした。実際のところは、そんな思念もまた朝とともに経過してしまいました。


僕は、はたらきながら音楽をつづけています。曲をつくって、演奏する活動です。「つくろう」「これこれこのためにこんな曲を書こう」とせずにつくり続けてきました。自分のためであり、その行為自体が目的なのです。商業目的でもないし、慈善目的でもありません。


ひとたび、いいと思える曲ができたかと思えば、とくに何も生まれない時期もあります。そうした時期が積もり重なるにつれて、「自分はもう曲が書けないのか?」「枯れてしまったのか?」といった不安や焦り、許しがたい気持ちが静かに水位を上げていくのを感じます。そうしてあるとき、また新たに曲を産み落とす……というようなバイオリズムを繰り返してきました。


このつくり方の難点は、ハイペースで生まれないということでしょうか。商業目的でもないし、依頼主がいるわけでもないので、そのことを難点とすること自体がおかしいのですが……強いて難点をいえば、「曲ができない」「枯れたのか?」と不安になり、焦る日々が次はいつ訪れるのかとびくびくし続けないといけない、ということくらいでしょうか。実際はそれほどびくびくしているわけではないので、やはりこれといって難点とは言い難いのだと思います。それでもう15年くらい続けているわけですし……


他の人がつくったもので、良いものにびくびくしてしまうことがあります。尊敬する年長者でその道の明らかな先輩の作品だったり、あるいは海外のものだったりすると抵抗なく受け入れやすいのですが、明らかに自分よりキャリアが短い年少者だったり、あるいは自分と近い境遇であろう人がつくったなにか素晴らしいものの片鱗が見えると、「うわぁ、こわい」「触れたくない」という防衛心理みたいなものがはたらいて、その作品との正対を避けてしまうことがあります。猛烈に悔しく、激しい羨望に自分が崩れそうになるのを予感するのかもしれません。


つくり続ける道をえらぶなら、これまでの自分が崩れることを好んでえらぶべきなのかもしれません。いえ、べつに好まざるとも良い。嫌いでも怖くてもいいから、逃げずに正対し、そのものらしさのすべてとぶつかる……それが、つくり続ける者の姿勢なのではないかとも思います。


これは、自分にできていないからこそなんべんでも言い聞かせていることでもあります。読んでくださり、ありがとうございます。