〈Live〉Kさんと僕の6時22分

どぶんと海に飛び込めば、360°どこを向いてもいいわけです。


さまざまなメディアがあるおかげで、ときに、カメラが向けられたものだけを見ていることを忘れて、その生きた様〈ライブ〉を知った気になる……そんなことがあるように思います。切り取られた端々を何倍しても何乗しても足りないくらいの〈ライブ〉が、いえ、〈ライフ〉が、現場にはひしめいているわけですね。


自分の〈ライフ〉さえも、ときに記号化して認知し、処理し、垂れ流しにしてしまうおそれがあることに気がつきます。自分の今週の休みと、先週の休みと、いったいどれだけ違うんだろう。変わり映えしないことの繰り返しのような気がしてしまう根底には、そんな、記号化して簡素化して省エネしてしまう人間(あるいは僕個人)の機構があるのかもしれません。


先週の休みと、今週の休みと……似たようなもののような気がしてしまう原因は、おそらくそこにあるのではないかと……


昨日、家の前の公園を眺めていました。今日もそうしています。昨日も視界を横切った、僕と同じマンションの住人で2匹の犬を連れたKさんが、今日も公園を横切っていきます。そこで、今日の僕は、時刻を見ました。(ここが、昨日の僕とは違います。)午前6時22分でした。


たったこれだけのことでも、なんだか今日という日が新しいかのように思えるのはなぜでしょう。


昨日までの僕の認識は、「同じマンションの住人のKさんが、朝に犬の散歩に出かけていくのを見かけることがある」でした。


今日の僕の認識は、「同じマンションの住人のKさんは、2匹の犬を連れて、僕たちの住むマンションの前の公園を、最寄駅から離れる方向に向かって通り抜けていった。その瞬間の時刻を見たら、午前6時22分だった。昨日と今日と2日連続で、僕は朝に犬を連れたKさんを見かけている。」です。


スーパーみみっちくてクソつまらないことのようでいて、似たように思える昨日と今日でも、その事実の認識に差が出ることのたとえを、キレのない愚かな僕の筆でおわかりいただけたでしょうか。


僕がこの〈現場〉にいることで、好きなものを見ることができます。自由に対象物をえらんで、着目できます。自分が〈現場〉にいることで、ほかの物(者)が干渉してくるかもしれません。予期せぬ刺激があるかもしれません。〈ライフ〉を垂れ流しにするのは、もったいないですね。


個々の仔細を伝えて引き込んでおいて、最後にググッと抽象化して、ひらいた世界をバーンッと見せる。そんな手法にあこがれます。