熱情の傍観者

「なぜ、あの子の初めての相手は自分じゃないのだろう」これは、思春期の頃によく悩んだことでした。自分の想いびとに、自分より先に他の相手がいたことが許せなかったのです。悩んでも変えられないことであり、どうしようもないことで苦悶していました。悔しくて仕方なくて、学校の近くの公園の、植え込みと通路を隔てるロープを支える杭を引っこ抜こうとしたこともありました。いやぁ、恥ずかしい……


「人間はなぜ八本足か?」これは、僕が大人になってから読んだ、土屋賢二さん(哲学の先生)の著書につけられたサブタイトルです。そもそも、その問いは立たない……それを問うこと自体がおかしい……哲学の問題として語られるもののなかには、そもそも問いとして成立しないものがあるよ~、という風に僕はその本を読みました。とてもおもしろかったし、読んでよかったと思える本でした。「そもそもそれを問うこと自体がおかしい」「その問いは成立しない」というようなことって、そういう目で見まわしてみると、生きていくなかでけっこう頻繁に出会うことのように思えます。そしてそのとき、そのことを知っていると、そもそも成立しない問いに惑わされたり振り回されたりしないで済むはずです。仮に振り回されたとしても、とらえようによってはそれもまた、かけがえのない経験なのかもしれませんけれど。


誰かが答えを知っているようなことじゃなく、誰も答えを知らないような問いを立てられたならば、それに向かって進めば良いのです。何もせず、暇を持て余し、苦痛の原因を追究しない……これが、人生を長く感じる術かもしれません。没頭すると、すぐに時が過ぎてしまいます。


物語の中に自分の気持ちが入り込んでしまうというのも、なんだか思春期のどうしようもない心理と似ているような気もします。ゆえに、若い頃は時間を長く感じる……というのは、そもそも何かが間違っているでしょうか。


かつては「このことでこんなに悩んでいるのは、世界でたったひとり、おれだけだ!」というような熱情で満たされていた気がします。今となっては、ぼんやりと霞んだ遠景です。いや……いまはいまで、いまなりに、なにかしらあるんですけどね。(と、若ぶる)