凡億のヒーロー

テレビというメディアが「時代のヒーロー」的な存在をつくるきっかけになっていた時代があったと思います。ネットが普及して、そうしたヒーローが生まれなくなったような気します。もちろんその「場」がネット上に移って以降に生まれた「ヒーロー」もいるかもしれませんが、意見がばらけるでしょう。特定の年代やコミュニティの間のみにおいては推定ヒーロー!  みたいな存在が、数多いるのではないかと思います。「場」の主流がテレビだった時代は、数少ない「太い」ヒーロー、「場」の主流がネットに移って以降は(いまの「場」の主流がネットであるかどうかは賛否あると思いますが、ここでは仮に。)、数たくさんの「細い」ヒーロー、といった具合にです。


「多くの人が挙げる特定のひとり」にあてはまるのが、本来の「ヒーロー」のイメージなのかなというような気もします。「細々とした、たくさんのヒーロー」というイメージがかなうというのは、そもそもの定義を侵しているとまではいえませんが、少なくともそれまで根底にあった定義やイメージが崩れてきていることを示しているのかなと思います。


最近知った、面白い漫画があります。たくさんの「ヒーロー」が出てくる漫画で、作中で「ヒーロー」たちは「怪人」たちと闘います。「ヒーロー協会」なるものがあって、協会によって「ヒーロー」たちは、ランクづけされているのです。怪人と闘って功績をあげると、「ヒーロー」たちの格付けが上がるようです。ランキングを上げることを重んじる姿勢を見せる「ヒーロー」もいるのですが、主人公(彼もまた、作中で協会認定の「ヒーロー」になる)はどちらかというと無関心(関心を見せる場面もあるのですが)。それでいて、明らかに最強なのです。主人公の力を見て、「世界には、こんな能力を持った者が埋もれているのか」と驚嘆する者のせりふが描かれるシーンがあったような気がしますが、このことをはじめとする、この作品における一連の描写が、現実の世界の「ヒーロー像」の分裂現象をとらえているようにも思えます。そうした分裂現象の末端にいるかのような細々とした「ヒーロー」のせりふが妙で、僕のような平凡で無能な一般人の心を揺さぶったり、哀愁たっぷりに感じられたりするのです。


「ヒーロー」に限らず、いろんなものが「特別」でなくなっているようにも思えます。「特別」だったものが、広く一般の共感を誘うタネになりつつあるのかもしれません。