鏡の「A」


自分をおびやかす「A」がある



自分の安全をおびやかす、あるいは自分にとって都合の悪い存在(仮にAとします)があったとします。自分が強くなって、Aに安全をおびやかされたり、自分の都合を悪くされないようになれば、それでいいでしょう。でもそうでない場合は、いつAと遭遇するか、した場合はどうしようかとびくびくして過ごすことになるかもしれません。



知識、洞察、観察は「力」



Aじゃないかもしれない、だけどAかもしれないから、ここは距離をとっておこうとか、自分から予め退いておこうとか、防衛行動をとることがあるかもしれません。もし、もっと「Aかどうか」を的確に判断する能力があったら、「かもしれないもの」にびくびくする機会は少なくて済むでしょう。そう考えると、「Aかどうか」的確な判断をすることにつながる十分な知識を備えることや、洞察力や観察力を鍛えることは、「自分が強くなること」に匹敵する「力」なのかもしれません。



「A」の定義



「Aかどうか」を判断する知識も「力」だと思いますが、「A」の定義に常に揺さぶりをかける姿勢も大事なことのように思います。あのときは「A」だったけれど、いまは違うということもありえます。Aの定義に、流動的な情勢に左右される要素が含まれていたとしたら、常にその情勢をチェックしていなければなりません。また、人々が、あなた自身が、『何を「A」だと思うか』ということも、わたしたちが生きて変化し続ける存在である以上、わたしたちがとらえる「A」の定義も、常に揺れ動くものであると認識しなければなりません。



生き残る能力



一回きりの人生は、判断をあやまって命を落としてしまえばそこで終わってしまいます。「A」が仮に、あなたに致命的な影響を与えうる存在である場合は、迂闊に近づくような真似はできないのも正直なところです。安全をとってまずは「A」として認知した行動をとりながら、徐々に擦り合わせるように認識をあらためていく、というのが、生き残る者の共通点といいますか、そもそも必須な能力なのかもしれません。



防衛反応と不自由



同じ「A」に分類されるもの、事物、事象であっても、個体差がそれぞれあるはずです。嫌いな「A」を知っているから、「A」に分類できるものは全部嫌い!  というのは、確かに危険の芽を摘む模範的な防衛反応かもしれません。しかし、そのことがあなたを不自由にしている可能性も考慮して、自分のとった反応を省みることは、これからのあなたを今より自由にすることにつながるかもしれません。



「A」は鏡



また、「A」がそもそも個体、固有の存在である場合でも、「A」にはきっと多面性があります。あなたが「A」を認識して嫌悪を感じるのは、「A」の持つたったひとつの面しか認めていないからだ、という可能性を疑うべきでしょう。同様に、あなたに対して嫌悪を示す存在があったとしても、それはあなたのごくわずか、たったひとつの面しかその相手が認めていないからだともいえるでしょう。嫌われているあなたが、あなたのすべてではないということです。あるいは、たったひとつの面にだけでも着目してもらえたことを、喜んでもいいでしょう。かすりもせずに、見知らぬ者同士で終わる者が大多数だとすれば、そうした関わりさえも貴重なものに思えてきます。


「A」に、いろんなものをあてはめて考えてみると面白いかもしれません。国籍?  性別?  自分?  「A」って一体、なんでしょう?