〇〇コンシャス

「ボディコン」の「コン」が、コンシャス(conscious)のコンだと、初めて知りました。わざとらしいとか、自意識の強いといったニュアンスが含まれているのですね。



埋もれた自己開示性



自分のからだのラインがよく見える・見られるような服は、自己開示性の強い服、とも言い換えられるでしょうか。からだというものは、自分のアイデンティティを示す、ひとつのシンプルでわかりやすい解ともいえそうです。


ボディコンファッションをすることが、そうした意味で自己開示につながるのかなぁと想像しますけれど、とても流行したファッションなわけですよね?  みんながみんな……とまでは言えないでしょうけれど、たくさんの人(いえ、ごく一部でしょうか)がそうしたファッションをしていたわけですよね?  そうしたファッションをした人が、ダンスホールと呼ぶのかクラブと呼ぶのかわかりませんが、踊ることのできる会場に集っていたわけですよね?  似たようなファッションに身を包んだ人たちが、会場にいっぱいいる、と。そうすると、その場での「自意識が強いこと」の平均値が上がるでしょう。ボディコンファッションでいることが、平凡なことになるわけですよね。結果、その場では「わざとらしさ」も「自意識の強さ」も何もなくなるのではないでしょうか。それは言い過ぎだとしても、いくらか大局的な価値観が麻痺するのではないかと想像します。



バブル期を想う



「自意識の強さ」みたいなものは、いくぶん日本人の気質とはかけ離れたもののようにも思えます。良くも悪くも、「協調」する国民性なのではないでしょうか(これは偏見だと思いますが、こうして書いていると、いかにそうした偏見を自分も持っているかということに気付きます)。そんな日本人が、ボディコンファッションにすすんで身を包んだという現象は、そうすることがまわりと歩調を合わせることにつながる時代背景だったということを示しているのかもしれません。


バブルと呼ばれた、景気が良かった時代に僕はすでにこの世に生まれていましたが、ちょうど乳児~幼児だった頃だと思います。(僕は1986年生まれです)その時代を肌で感じた記憶はありません。



〇〇コンシャスの統合体



当時ボディコンスーツを着て踊っていた人も、そのときのことを振り返ってみると、「どうかしていた」と思う人もいるのではないでしょうか。「ボディ・コンシャスな自分」も確かに存在していたのかもしれませんが、それが自分すべてというわけではありません。いろんな「〇〇コンシャス」の自分が統合されて、ひとりの人間をつくっているのではないかと思います。